STAP細胞 あれば良いし、なくても面白い

STAP細胞について、最初に認識したときに連想したのは徐福と始皇帝だ。

 

徐福 - Wikipedia

 

徐福は始皇帝に不老不死の薬を採りに行くと言って金を引っ張ったという。

 

私はこの逸話が好きだ。

 

当時、最も「持てる」ものであった始皇帝、しかも後の皇帝は数あれど唯一無二の始皇帝その人でさえも得たいと願いながらも手に出来なかった不老不死。

そこをついて金を引っ張った徐福は詐欺師と言ってしまえばそれまでだけども、その相手は時の最高権力者でもあり何とも痛快な話ではないか。

なお、私の場合、陳舜臣の小説十八史略のイメージが強い。

 

ひょっとすると、当時の始皇帝よりも現代人の方が多くを持っているかも知れない。

我々現代人が何より切望しているのも、不老不死かもしれない。

 

私は、若い頃はそうでもなかったが、今、不老不死の薬あるいはそれに近い何かがあるなら、欲しい、と思う。

 

で、STAP細胞

本当にあると良いなあ。

 

でも、なかったとして、偽りだったとしても、がっかりはするけれども、困りはしない。誰も。

 

理研の人は困るかもしれない。

しかし、理研自体が、そもそもなくても良いのではないか。

理研がなくなれば、もう、誰も困らない。

 

小保方氏が真にSTAP細胞の発見者なら素晴らしい喜ばしいことだ。

そうでないとしても誰も困らない。どころか、私自身は、ちょっと小気味よく痛快でさえある。

 

さて、現在の始皇帝は誰で徐福は誰であろうか。

 

無粋を承知で書くならば、現在の始皇帝は国民、納税者であり、徐福は理研であろう。

 

なかなか薬探しの旅に出発しない徐福にキレた始皇帝が徐福を呼び出したところ、徐福は逆ギレして船作る金が足らんと言って余計に金を分捕って帰ったとか。

 

創作でも、面白ければ良い、みたいな所あるよね。

誰も困ってないし。

 

 

マクドナルドが不味いわけがない

マクドナルドのハンバーガーが不味くて、モスバーガーが美味いって言っている人を見かける。昔から。

 

で、そろそろ一言、言っておきたい。

 

はっきり言って味音痴でしょ。

マクドナルドのハンバーガーの味付けなんてケチャップかかってるだけだよ。

美味くも不味くもなりようがない。余地がない。

 

一方、モスバーガーは昔は美味しかった記憶。

だが、昨年か一昨年か食べてみたら不味くなってた。のでもう行かない。

モスバーガーのソースは美味くも不味くもなる余地がある。

で、事実として不味かった。

 

セントラルキッチンで作っているソースが不味いのか、もしかしたらその店舗だけ不味いのかもしれない。

今年食べてみたら美味くなっているかもしれないし、別の店舗で食べたら美味いのかもしれない。

でも、博打を打って食べに行って、やっぱり不味かったらと考えると、やはり買おうとは思わない。

 

マクドナルドだと、それがない。

まず、どこで食べてもほぼ同じ。

特別に美味くも不味くもない。

 

もちろん、いくらでもコストをかけて良い肉を使えば美味いハンバーガーが出来るかもしれない。

マクドナルドのハンバーガーは、その値段に相応以上の「品質」だろうと思う。

 

女性型ロボットは、ひとり暮らしの読書家のために日本家屋を掃除し続けるのか

前回は波に乗り遅れてしまったので、パっと書いてみる。

 

「人工知能」の表紙に対する意見や議論に関して | 人工知能学会 (The Japanese Society for Artificial Intelligence)

 

から引用。

まず、学会サイドは、前回の顛末として、

 

今回、人工知能学会の学会誌名の変更と表紙デザインの変更に関し、さまざまなご意見や議論がウェブ上で展開され、ご批判も多く寄せられました。不快な思いをされた方々、また人工知能学会を日頃から支援して頂いている関係者の方々に深くお詫び申し上げます。

 

というように「お詫び」している。

続いて、

 

女性が掃除をしているという印象(さらには女性が掃除をすべきだという解釈の余地)を与えたことについては、公共性の高い学術団体としての配慮が行き届かず、深く反省するところです。

 

編集委員会では、さまざまにいただいたご意見を受け止め、今後の改善につなげていきたいと考えております。

 

ということであった。

 

で、今回の表紙絵を見た。

 

はてなブックマーク - メイドさん表紙で物議を醸し出してしまった人工知能学会誌ですが、その次の号ではメイドさん視点の表紙になりました。... on Twitpic

 

この絵を見て、あー、野暮だな、と思った。

 

今回の絵は、明らかに前回の絵を受けてのものと理解せざるを得ない。

ということは、前回の絵およびそれを掲載したことを肯定している。

 

これをあえて掲載しているのだから「意趣返し」「皮肉」「挑発」とも受け取れる。

実際、ブコメを見ても、複数の人がそう受け取っている。

まあ、そんなところなのだろう。

 

それが「野暮」である。

 

前回の絵について悪いと思っていないのなら最初からそう言えば良い。論理的に説明すれば良い。

「意趣返し」「皮肉」「挑発」なんて成熟した大人、組織がやることじゃない。

また、そのような姿勢に喝采を送る輩も社会人としてあまり関わりたくないタイプの人間だ(非論理的で非生産的)。

 

 

この騒動は建設的な議論で社会全体としてなにかしらの成果を得られた可能性もあったのに、実に残念だと言わざるを得ない。

 

人工知能Vol. 29 No. 2 ( 2014 年3 月) | 人工知能学会 (The Japanese Society for Artificial Intelligence)

 

を見ると、

小特集:「「人工知能」表紙問題における議論と論点の整理」

とある。

これには興味があるが、読む機会はなさそうだ。

まあ、内部の人による議論のようなので身内批判はさける内容になるだろうから読んでもしょうがないかもしれないが。

 

議論が進んで欲しいな、とは思うのだけど肝心な学会サイド自身による論理的な説明と第三者による議論がないとゲスパー合戦にしかならない。

 

まあ、ゲスパー大戦は、それはそれで面白いのだけど。

 

ゲスパー大戦としての学会誌表紙絵騒動が面白かった - lestructure's blog

 

ところで、デザイナーの設定としては表題の通りなんだけど、じゃあ、今回の子どもは誰なの?ひとり暮らしの読書家その人なの?

 

と考えて、いや前回の絵と無関係です。という話になりそうな気もしてきたけど、さすがにそれは通らないよねえ。

 

 

「エセ科学」「エセ経済学」に騙されないために必要なのは「クリティカルシンキング」なんじゃないの?

ちきりん氏のお粗末な科学教育論 - バッタもん日記

またか。どうして対案が出せないの?それじゃ勝負の土俵にも乗れてないぜ。建設的に行こうよ。というか批判にもなってないけど。

 

以前、

 

「ちきりん批判」が粗雑ではないか?という話 - lestructure's blog

 

という記事を書いており、またか、と思った。

 

 

ちきりん氏の良いところを書いてみる - lestructure's blog

 

良い所は認めずに、内容そのものに対してでなく細かい点で批判を行い、本質的な部分での批判、対案を出すことはない。

さらにそれに乗って叩く人々。感情先行。

まあ、一種の娯楽なんでしょう。

 

で、それはともかくとして、表題のとおりのことを思った。

 

はてなユーザーの傾向だろうけど、「エセ科学」に対して厳しく「科学リテラシー」の乏しい人にも厳しい(というかバカにしている)割には「エセ経済学」的なものに対しては批判的な見方をせずに何となく信じてしまっている(もちろん自分で気づいてはいない)ように見える。

高校、大学と理系で進んできて「科学的」「数学的」な素養があってもエセ経済学には騙されるのだとしたら。

 

私が思うに、多分「エセXX」に騙されないようになるために必要なのは、「ではなく「クリティカルシンキング」だろう。

 

で、もう一つ。

 

「役に立つ知識」としての学問: やまもといちろうBLOG(ブログ)

これはいただけない。可能性を狭めないことなんて不可能だよ。リソースは無限にない。取捨選択の議論は必要。

 

もちろん可能性は広い方が良い、がリソースは有限なので取捨選択は必要。

無限なら高校に理系、文系、英語科、商業科、工業科、体育科などなどは全く不要で全部教えれば良い、ということになる。

 

結局、教育も投資なのであってお金を無限にかけれるとしても、時間は絶対に有限なのだから取捨選択は必要。

 

あんまり考えてみたことはないけど、この流れでクリティカルシンキングは教えて良いよなあ、と思った。

クリティカルシンキングは中学高校でやるような科学、数学とは無関係に教えることが出来る。

 

エセ科学、エセ経済学を無批判に信じてしまう人が確かに多いのだから、義務教育で訓練した方が良いような気はするが、まあ、難しそうだな、とは思う。

 

と書いてきたが私自身は、

 

中卒で就職するのが普通になるべき - lestructure's blog

 

と思ってたりする。

 

ビジネスとしてマズいからといって社会に貢献していないとは限らない

以下の記事への傍観者さんからのコメントにこちらで返信します。

 

パクリにケチをつける行為は社会全体の損失 - lestructure's blog

 

ビジネスとして評価できないのに、何故、パクリ批判は社会の損失になると今回の件をおっしゃってるんてすかね?
あと、非Twitterって、現代でターゲットそんな狭めて商売ですか?

なんだか、理路整然と話してます!という姿勢ですが、全く論点がみえなければ、筋もみえません。
Zさんやアホ男子親さんへのレスもズレていますし・・・。

確かに日本はパクりから成長しました。そして生み出す側になりました。
法整備も、社会認識も改め、それぞれの権利を認めました。

あなたの理論、現在の中国をみているようです・・・。

 

本当に損失になるのは、誰かのアイデアからインスピレーションを受け、更なる素晴らしいものを生み出すことであって、そのままそれを真似して世に出すことではないのではないでしょうか。
考えず、生み出さず、作り出さず、ただ誰かのものをぱくるのが社会の得になるなんて、怠惰の極み。歩みを止めることと同等です。

 

本当に損失になるのはの下りですが
「本当に批判されて損失になるのは」ということです。

 

まず、今回の件をビジネスとして評価しない、をもう少し説明します。

 

総合的に見て、ということなのですが、話を分かりやすくするために4Pで分けてみたいと思います。

 

Product

もともと、大喜利として面白いのは確かであり、それをパクっています。(パクリは出版社側も認めています)

それにさらに絵をつけています。

絵がつくことによってプラスαの効果が出ており、単にツイートを転記したものよりも付加価値が高まっていると考えます。

 

Price

妥当。

 

プロダクトと価格は、まあ良いんじゃないか、と思います。

 

Place
Promotion

せっかくTwitter発のものであるのにTwitterユーザーを取り込んだプロモーションやターゲッティング(導線も)、を行わないのはビジネスとして下手だな、と思いました。

しかし、Twitterユーザーと一部のインターネットユーザーしか楽しんでいないものを、それ以外の人に本の形態として届けるということには価値を感じます。

 

下手な所はあるものの、面白い書籍が出来て、書籍の形でなければ本来楽しむことができなかったであろう人の元に届いて、楽しむことができるのであれば、それは社会的な価値があると考えます。

 

ビジネスとして評価しないというのは、下手だから赤字になりかねないということであり、しかし赤字になるビジネスでも社会的に価値があるあることも多いです。(GDPも増えます)

 

次に良い「パクリ」について。

 

更なる素晴らしいものを生み出すことであって、そのままそれを真似して世に出すことではない

 

基本的に同意です。

 

今回の件に関して言えば、「更なるすばらしいもの」が生み出されている、と私は思います。

 

付加価値をつけたクリエイターの方には気の毒な展開になっていると思います。

正義の行使をしたつもりなのかもしれませんが、結果として悪くもない人を追いつめることに加担しているということを自覚してない人が多いようなんですが、自覚して欲しいと思います、、、思わないんでしょうね。余談です。 

 

繰り返しになりますが違法であれば、もちろん問題に間違いないでしょう。

 

今回の件が、著作権を所持している「かも」しれない全ての人と合意の上で、Twitterをプロモーションにも活用して、とやっていればビジネスとしてもうまくいっていたし、社会的な価値も像出していたの「かも」しれませんね。

 

私の文章が下手なので伝わらないのかもしれませんが、繰り返しになりますが簡単にまとめてみると、パクリには良いパクリと悪いパクリがある、と私は考えます。

 

良いパクリは奨励されており、悪いパクリは法律等で取り締まられるようになっています。特許の運用が正にそうです。

現行法は、現代社会全体の合意の結果ということで良いのだと思いますので、適法ならセーフであり、良いパクリだと考えるべきでしょう。

良いパクリにケチをつけるのは、社会的損失です。

 

悪いパクリであってもケチをつけるというのではなくて、法律的に処理するというのがフェアだし、穏便だし、社会全体の幸福への近道だ、と私は考えます。

 

伝わりますでしょうか。

 

社会全体の富について

コメントにしようかと思いましたが長くなるのでここで。

 

ご回答 - 何気ない記録

 

ご回答ありがとうございます。

 

私が社会全体と言ったのは全人類、富は経済学で使われるようなざっくりとした意味で使いました。

富に明確な定義をイメージした訳ではないですがGDPなど、まさにお金の流れが社会全体の幸福を測る目安として一般的という認識です。

 

今回の件で言えば、アホ男子は大喜利として確かに面白い。Twitterユーザーでそれを見て幸福を得た人がいるでしょう。

お金は動いてないですが、これは富を創出したと考えて差し支えないと思います。

 

しかし、非Twitterユーザーは、その幸福を得ることはない。

今回の出版社のやり口、ビジネスとしては評価していないですが、ただの単文でなく、優秀なクリエイターが漫画をつけることでプロダクトとしてより付加価値が増したということで誰もが合意できると思いますし、書籍になって初めて手にして幸福を得られる人もいるでしょう。

その幸福は正に社会全体としての価値であり富でしょう(お金が動いてGDPも増えます)。

 

パクリの否定は、このような幸福、富の創出の機会を阻むのだから、社会の損失と考えます。

 

ビジネスパーソン云々は自分の感情の元となった経験として持ち出した事実にすぎず、それ以上の意図はありません。

ビジネスパーソンも消費者も投資家も(私自身それら全ての側面がある訳ですが)、全て社会の構成員です。

この件でレイヤーを分けて話をする意味はないと考えます。

 

 

 

 

パクリにケチをつける行為は社会全体の損失

パクリについて。

 

「アホ男子かるた」出版の件 - スズコ、考える。 

特に問題ないと思う。が、問題ありとの認識なら法的に解決しましょう。

 

この話、私としては、

 

アイデア自体には価値はない - lestructure's blog

 

という姿勢なので、別に良いじゃん、と思う。

 

感情論は、どうしても合意点なんて見いだせないので議論してもしょうがないが、どうして感情に差が出るのかな、と考えるに、私の場合はビジネスパーソンとしての経験上、特許を出願したり他者特許をチェックしたりしてきたので、特許に抵触してなければセーフ、という考えが染み付いているからだろう、と思った。

 

特許されないってことは新規性なり進歩性がない、あるいは出願の意志がないということなので、その技術を使ってもなんら問題ない。

 

それどころか、それを実施しているということは、大抵の場合、社会に価値を提供しているという意味で社会に貢献している、と受け取るべき。

それを貶めるということは社会全体の不幸であり損失だ。

 

同じく、文章についても法的な権利化が出来てないものはパクって問題ないし、それが売れるということは社会全体で見たときに富を創出している、全体の幸福に貢献していると考えるのが合理的だ。

 

パクリそれ自体は悪ではない。

というか善悪の判断なんて合意できる訳がない。

 

 

法的な権利の侵害があるのであればもちろん違法であり問題だが、Twitterの規約等から「アホ男子」の権には問題がなさそうに見えている。

 

とするならば、これにケチをつけるのは社会全体の不幸につながる。

その上で、感情的に許せない、というのであれば合法的に嫌がらせするということはもちろん考えられるし、まあセーフなのだろう。

しかし、社会全体が不幸になるようなことは、私はお勧めしない。

(利害関係のない第三者で嫌がらせまでやる者がいたりするが、それはもはや「社会の敵」だと思う)

 

実際には違法なのかもしれないが、あくまで法的に決着をつけるのが皆が幸せになれる近道だろう。