「正しくない」と言うより、行動しよう

自分の考えが正しく、他人が間違っていて、人はその間違いを正すべき

 

というようなことを、私を含め、誰しもが多かれ少なかれ思っていることだろう。

 

けども、まず、本当にそうかな?という問いかけが必要なんじゃないか。

 

 

ゴールが自分とその人とでは違うのかもしれない。

であれば、合うわけがない。

「全国大会出場」をゴールとする人と、「楽しい時間を過ごす」をゴールとする人とでは恐らく妥結点が見つからない。

 

ゴールが同じ場合はどうか。

理想としてはその通り、で共通認識が持てるとして、だけど当事者でない私が理想を言い続け、当事者である相手が様々な現実問題によって、理想通りできないこともあるだろう。

結果として、現実の見えない私が「どうして正しくないんだ!」と思うこともあるかもしれない。

 

というところにまで思いを及ばせたい。

 

自分も当事者である場合はどうか。

当事者なら、他人が正しくない、などと考える暇があったら、自分が正しいと思う方向にものごとを動かすことを優先すべきだろう。

 

例えば、行政がおかしい、と思う。

おかしい。

 

でも、それを言って何になる?

正しくない他人より正しい私、という自己認識で幸福感が得られるのかもしれないが、それで良いの?

 

直接の利害関係が薄いなら、放っておくのが経済合理的だ。

 

当事者であったり、自分の影響力が及ぶ話であって、経済合理的だと判断したなら行政のあり方を変えてしまえば良い。

 

というような話だろう、と思う。

 

例えば、、

 

 

アイテム課金に関して:島国大和のド畜生

経済合理的に、アイテム課金性をとる以外にゲームが生き延びる方法はないだろう、という言説。他の解もありそうではある。ちょっと考えてみたい。

 

アイテム課金はけしからん!という言説に意味がある気はしない。

 

「好きな種類のゲームをアイテム課金がないシステムとして遊びたいんだ」という話なら、私も賛同する。

 

けしからん!といくら言ってみたところで、ものごとは好転しない。

なぜなら、経済合理性に基づいて、一つのあるべき姿に向かう力が働いているのだから、そこに収束するしかない。

 

業界のコンセンサスとしては、それがアイテム課金性、ということらしい。

 

アイテム課金性でも、そのゲームが存在しているうちはまだ良くって、最悪、その種のゲーム自体がなくなってしまうのかもしれない。

 

それを防ぐには行動するしかない。

コピー品や中古品でなくて、正規品を積極的に買う、というのも一つの方法かもしれないし、同好の士を増やすのも手かもしれない。

 

ゲームが存続できる、新しいビジネスモデル、またはテクノロジーでも良いけれども、出てこないものか。

 

コンシューマの特に据え置きゲームが縮小しているのは感じる。

残念だ。

 

私は1ユーザーに過ぎないけれども、何か自分なりに考えて行動してみたい。

 

あと、納税者、受益者として行財政改革も考えてみたいけど、市井の一個人が影響を及ぼすのはかなり無理ゲーと感じるので、考えないのが合理的ということで考えない。

けど、考えてみたい。