何かをDisることで得られる幸福は割に合わない気がする

他者を貶めることは自己の満足、幸福感につながる。

人は、他者と自己の比較で自らが優位であるときに幸福感を得るものだから。

それは、人の基本的な性質であり、個人差はあるかもしれないが普遍だ。

 

で、以下、

 

 

何かをDisらずに自分の好きを説明できるのはブロガーのうち1割もいないだろう

各論は同意しないが、総論としては分かる。

 

好きを説明するとき「ついでにいっちょ批判」するのは止そう - インターネットの備忘録

止まないよね。人は比較によって幸福感を得るから、他を貶めることで大きな幸福感を得るわけで。

 

結婚してなくて良かったなあと思う瞬間

結婚するしないどちらにせよ、現状に満足している人は結婚して/しなくて良かったなあなどとは、思わないのではないかなあ。自分と違う指向を貶めて得る満足感は本物でない気がする。

 

という、ブコメを並べてみる。

 

自分が「好きな/満足している/幸福を感じている事柄」について説明するとき、というかWebに何かを書き込むとき、それはそれ自体が満足感、幸福感を得るためであろう。

 

自分が幸福であることを書いて、一種の追認をする。

 

ここで、その満足をより高めるために、何かと比較して、その比較対象を貶める。

その差が開けば開く程、満足感、幸福感が得られる。

 

であるならば、誰しもがそうしない訳がない。

なので、他人をDisる/貶める論述なりを貶める論述がブーメランになりがちなのも致し方がない。ダッサいけどね。

 

人が幸福を追求することは、他人がとやかく言うことではない。

架空の比較対象を貶める分には誰も困らないから良いのかもしれない。ダサいけど。

 

実在の人を貶めるのは、これはもう「悪い」。

これをやるんだったら、その「悪さ」を引き受けなければならないことを覚悟しなければならないだろう。

これは、それが負うマイナスを考慮すると割に合わないんじゃないか、という気がする。

 

それと、他者をDisらないと説明で気なのなら、本当に好き/満足しているわけではないのではないか、という指摘は、確かにそんな気もするが、本当に好きであってもより満足を得るためにやるインセンティブがあることを考えると、その指摘は当たらない、と見る。

 

ところで、この行動は人間という種そのものが持った性質に思われるので、個人差はあれど誰しもがやってしまう危険を孕んでいると思われる。

危ない。気をつけたい。