表現の火は消えぬ
「ブログ批判」論争というか。
私は昔ブログ書いてた時期もあったのだけど書かなくなって数年。
今年から、また、書こうかな、という気になって書いている。
で、ブログそのものにはそんなに変化があったとは思ってなくて、しかし、表現者には色々な選択肢が増えたのだと思う。SNSしかり。
ブログは、やはり、ある程度まとまった文章が書けて、議論の道具として使える、というのが大きい気がする。
PVよりも、「気づき」や「真理の探求」が出来ると嬉しい、と思う。
私に取ってブログというかオープンなメディアは批判し、批判されるものだし、そうあって欲しい。
さて、最近の記事で以下のようにコメントを書いた。
マネー系記事はリアルに他人の財産を毀損しかねないわけで自己責任の世界とはいえ発信側にもそれなりの責任は確実に存在する。あなたのせいでXX万円損した、と言われるときの覚悟がないなら他の記事書いた方が良い。
今のスタンスではてなブログで書き続けてると、潰れるだろうなと思った話 - 体調わる子の毒吐きブログ
ハートの強さは随一。普通立ち上がれないだろうほど打たれてもファイティングポーズをとり続けるのは素直に感心する。
打たれ弱い奴はブログとか辞めたほうがいいんじゃないですか(山本 一郎) - 個人 - Yahoo!ニュース
ブログ黎明期に終わった議論かと思ってたけど、この先もずっと繰り返されそうな気がしてきた。
私は、どうも「打たれ強い人」に感心してしまう。
多分、生きて行く上では打たれ強い方が有利だ。
「僭越」氏は、本当に繊細な人なんだろう、と思う。
件の「批判コメント」で心が折れているようでは、、、と誰もが思うだろう。
一方、「わる子」氏は、もうそんなレベルじゃない呪詛とぐうの音もでない正論を投げかけられて、それでもファイティングポーズを取り続けている。
向上心、意志の強さ、と言っていいのか分からないが、それは感じる。
あ、ちょっと間違ったな、と思ったりしたが、しかし正しい方向なのかもしれない。
正しいかどうかなんて誰に分かるというのか。
内容的に両氏どちらのブログが社会的価値があるか?というと、まあ、だいたい同じくらいと見る。
で、この記事を書いたのは、以下のブログを読んだからだ。
はてなブックマーク - ブログは「弱虫な表現者のためのもの」だった。 - いつか電池がきれるまで
表現欲と覚悟だけがあって、「切実に書きたいこと」を持たない人と、金銭欲だけがあって、炎上狙いのエントリを書き続ける人ばかりが残っていくのだとしたら、そんなブログの世界は、あんまり面白くないと思いませんか?
我ながら単純だな、と思うけど、文中で問いかけられたので答えを考えてしまった。
「そんな世界にはならないと思うけど、仮になったとしてそれはそれで良いかな」
というのが答えになる。
経済原理的に、需要のあるものは残るし、ないものは残らない。
「弱虫の表現」に需要があるのなら、その流通システムを誰かが作る。
「覚悟」の文章ははっきりと需要がある。
私自身、読みたいし、恐らく、気付きを与えてくれて、真理に近づくことができそうだ。
「炎上狙い」の文章は、私は読みたいとは思わないが、需要があるのは分かる。
皆、半分分かっていても読みに行くのは、快楽を得られるからだろう。
わざわざ怒りに行って、呪詛をはいてすっきりして帰る人もいるかもしれない。
人々に快楽を提供してるという意味では、少なくとも価値がある。
「弱虫の表現」は、私には自己満足以上の価値が分からない。
「僭越」氏は、ストレス解消のためにブログを始めたのだそうだけど、私は氏の文章からは価値が得られなかった。
ところで、覚悟のある人間の書く文章には、主張には大して論拠は必要ない、と思っている。
論拠が曖昧なら突っ込むものもいるだろうが、批判上等なのだから、それで良い。
批判を恐れるのなら、事実そのものか事実から論理的に導かれる結論だけ書けば良いと思う。
それは批判のしようがないし、価値があると思う。
論拠がない主張をしたいけど、批判は嫌だ、というような姿勢で、「XX投資が良さそうだよー」と書いて、真に受けた人間が持ち金全部融かしたら、それで批判されたらどうするのか。
書く内容に応じた覚悟は必要だろう、あるべきだ、と思う。
それはそれとして、覚悟がない書き手はネット言論に参加しないかと言ったら、そんなことはなくて、「炎上?何それ?」状態で参入し続けるんじゃないかなという気がする。「僭越」氏の例を見ても。
大抵は問題にならないはずだ。あえて泡沫ブログを見つけて批判したりするインセンティブがない。
しかし、たまに炎上したり問題にしたりする人が出て、、、
またブログ批判論争が何度でもなされる未来が浮かぶ。