少子化は単に幸福追求の結果としての現象である
やはり気になる、この手の話題。
【炎上】ホリエモン、新幹線で泣く子供に対し「舌打ちもしょうがない」「睡眠薬飲ませればいい」と発言 - NAVER まとめ
昔から人格者には見えなかったので、特に驚きはない。子どもと親への理解という点で段々と社会全体が悪化しているのは確かな気がする。
【正論】年頭にあたり 「あたり前」を以て人口減を制す - MSN産経ニュース
これは、少子化云々というより、単に「昔に戻りたい」のだろう。
煽るなあ。価値観次第ではあるけど、親にそんなに大きな義務はない。
私としては、絶対にこういう社会であるべきだ!という理想というのはなくて、どの論者の意見も、まあ、分かると言えば分かる。
しかし、それだけは、絶対にない、というのは「昔に戻る」ことだ。
例えば、昔の方が子どもと親に対して寛容であったはずで、昔の良い所を思う気持ちは分かるが前提が違う、トフラーの言うくさびというか、もう引き返せないし、引き返すべきでない。
「女を家に戻す」ことで少子化が減ることにはならないだろうなと先の匿名記事を見ても思う。
少子化が非寛容を産んでいると思う。
もともと(子どもと親に対して)寛容な人は、自身が子を持つか否かに関わらず寛容であり続けるだろう。
もとは非寛容だったが、子を持ち育てた経験を経て寛容になることがある。私がこれ。タイプ。
もともと非寛容で、子を持っても非寛容であり続ける人もいるだろう。堀江氏のように。タイプ。
人の性質は昔も今もほとんど同じだろう。
少子化ということは、子を持った後に寛容になるケースが減る。
ということで、少子化の現在は、昔に比べて社会全体が非寛容である、というロジック。
ただ、これは因果の結果であって、少子化の原因ではなかろう。
では、匿名エントリのように経済的な困窮が少子化の原因か?というと、これもそうは思えない。
経済的に貧しい国が少子化かというとそうではないし、日本に置いても時代を遡る程貧しかったろう。
子どもを産んだあとの死亡率が高そうだとは思うが、産むだけなら産める。
少子化の原因は「豊かさ」だろうと思う。
昔は、生きるために労働力として子どもを産む必要があっただろうし、子を生すことが幸せに生きるための数少ない手段だっただろう、と想像する。
そして、恐らく、集団で生活することで生活コスト(あるいはリスク)を極小化、効率化していた。
一方、現代では、核家族はおろか一人でさえ豊かに生きて行ける。
子を多く産み集団で生活しなくても生活コストは十分に賄え、幸せの形も様々だ。
これは、ある意味で現代社会の人々は十分に幸福なのであり、それで良いのだ、とすると少子化であることは単に結果であり現象である、と見ることが出来る。
自分は今を幸福に生きているんだ、将来、少子化で日本が人類が滅びようと知ったことかい!というのは一つの価値観だと思う。
最初に上げた3つの記事の各氏それぞれ、いや、ほとんどの人がそう思っているように見える。
社会全体での恋愛・結婚・出産・子育ての最適な形について - lestructure's blog
というのを書いた。
人類全体が繁栄して行くには、この形が一つの理想だと思う。
一方で、私も人類が滅びたって知ったことか、とも思う。
人類が繁栄してきた、つまり個体数が増えてきたのもやはり単なる結果、現象である。
人類が増えるべきか減るべきか、私にはどうでも良い。(気分の問題としては、増えた方が気分は良く、滅びたら気分が悪いだろうな、と想像する)
私としては、私自身の幸福だけが関心事だ。
自分の幸福は分かるが、他の人の幸福は分からないので。
皆同様だろう。
なので、皆、勝手にすれば良いと思う。
多分、人類は勝手に子を生し、増えてきた。
極端に言うと無法状態であったって良いと思うが、私は私の幸福を守るために法治国家の一員でありたい。
子どもに普通の生活をさせなければ!と思うのは価値観、というかその人の幸福追求の姿勢として、とやかく言うつもりはない。
しかし、法治国家が親に対して義務と定めるものは、そんなに過剰ではない。
法治国家の一員として最低限義務を果たせば、それで良いのだと思う。
ある種の習い事をさせるのが普通であり、最低限だ、というコンセンサスは、現代の日本で言えば中学校卒業まで、だ。
大過なく中学卒業まで育てれば、親としてとやかく言われる筋合いはない。
もちろん、自分ルールで何かを押し付ける輩はいるだろうが、それは国民のコンセンサスを得たものではない。
中学以上も必要だ、というのなら法制化すべきだし、それが過半数の意見ならそうなるだろう。
この辺り、もう少し思う所あるので、また、書いてみたい。