実現性のない批判に意味はない
最近書いたブコメを並べてみる。
評論だけしている方が常にダサい。
娘二人が成人し、今になって自分のしていた育児は失敗だったと後悔しています : 鬼女速
共働きで姉妹そろって大学まで行かせた親がクズ親?ガキ過ぎる。感謝こそすれ、恨むなんてお門違い。どうせ分からないだろうから、親になれば分かるよ、と言っておく。
「クソUI」コメントに何の生産性もない、に同意。別に生産性がなくったって存在を否定する必要も無いけど。対案のない批判は無視で良い。
まず、単なる批評とか批判に価値があると思わない。過去、価値があった実例がない。
「クソXX」コメントに至っては、害しかない。
言論はもちろん自由だし、社会全体の議論によって、理想を追求して行くのは良い。そうあるべきだろう。
理想の子育て、理想のUI。
理想に近づくには、テーゼにアンチテーゼをぶつけてアンチテーゼを導いて行くようなプロセスが必要だろう。
アンチテーゼ、すなわち対案である。
で、実際に何かを実行した人、あるいはその結果は、実現しているのだから現実的な解の一つである。成功にせよ、失敗にせよ意義がある。
大して、これに対する批評は机上の論である。
実現可能な対案であれば意味がある。そして、それを実行することには多いに意味がある。
しかし実現性のない全くの机上の空論にどれほどの意義がある?
ましてや、感情的な批判、批判ですらない感情の吐露。
子供二人を共働きで大学まで行かせた親がクズ親?
その上で、あなたの脳内にある「正しい」子育てまでせにゃならんの?
どこまで甘えているのか、と。
何不自由なく生きて来れたんだろうな、と思う。
何不自由なく暮らしてきた良家の子弟。不幸自慢大会、一回戦敗退レベル。は、言い過ぎか。皆、色々と飲み込んで消化して成長するんよね。
勝手に代表して代弁すると、、
まともな批判は受けるよ。
でも、現実的でない批判に何の意味があるの。
その実現性のない対案の実現性のなさを説明してやらにゃならんの?
面倒くさい、お前が証明すべき、、、
というのをひっくるめて、
「じゃあ、お前がやってみろ」
ということになる。
まともに返す価値もないということ。
まともな批判で、議論すれば有意義だ、と思えば、ちゃんと答えるよ。
別に、インターネットに感情を吐き出しちゃいかん、とまで言わないけど、、
あ、あれかな、自分は出来ないけど、プロならやるべき、親ならやるべき。
出来ないなら、プロをやるな、親をやるな。
そんな感じか?
甘えるな!
世間はお前らの母親ではないっ...!
というか、親にも甘えるなっ...大学まで行かせてもらって!
そもそも評論ってものは誰にでも与えられた権利みたいなもので、それをとやかく言うのは筋違い
百歩譲って誰にでも与えられた権利だとして。
「クズ親」「クソUI」という単なる感情の吐露をも評論というのだとして。
全ての批判に、評論に、まともに返す義務はない。
意味のない批判に「じゃあ、お前がやってみろ」と返されても当然でしょ。
無視されなかっただけ有り難い、くらいの話。
世の中って、他人に厳しい。
特に母親に厳しいな、というのが、これも最近の感想。
確かに厳しい。一歩譲って判決自体が妥当としても母親の過失指摘は無理筋。
育児ノイローゼになりかけて、自治体に電話した話 - yuki's blog...
母の辛さは、それ以外の人には分からない。うちも夜中2時間おきにお湯わかしてた時期がありました。
文句言うのは簡単だよ。
「母親なら共働きだろうが、常に子供を見ているべき。四六時中。」
「子育てはこうあるべき」「UIは継続性が大事」
いや、簡単。実に、簡単。
「じゃあ、前がやってみろ」ってなるよね。
まあ、実際のところ、やらなくても良いよ。
せめて、実現可能な方法とともに対案を出してよ。
せめて、実行した人に敬意を持とうよ。
どちらがダサい?明らかじゃない?