合理性が持ち込めない歪んだ市場

最近の議論の中でも非常に面白いな、と思った。

 

「ネットダフ屋」チケット高騰で問題視 “規制”か“公認”か (産経新聞) - Yahoo!ニュース

経済合理性が持ち込めない歪んだ市場。市場が歪んでいる限り裁定機会がなくなることはない。

 

読めば分かる通り、山崎氏の方が論理的であり、原理的には正しい。

一方の紀藤氏は何故議論をすり替えている。何故、そんなことをするのか理解が出来ない。

 

議論になっておらず、その意味では面白みはない。

 

しかし、この記事に対するネットの反応を見ると、紀藤氏支持が多い。

不思議に思ったが、各ステークホルダーの思惑が、変なところで均衡しているのだろうと想像する。

これが、非常に興味深い、と思った。

 

ともかく転売で儲けるやつが許せない!というのが一つの大きな感情として見える。

全ての非合理に目をつぶっても、ということらしい。

転売というのは正に裁定取引そのものであり、裁定機会が存在するのは価値と価格にギャップがある非常に歪んだ市場であるということだ。

 

ライブチケットは有限であるから、供給が限られる。

それに対して十分大きな需要が有れば、それなりの価格を支払っても良い、という人が出てくるのは当然である。

そして、よりお金を払った人が見れる、というのが確かにフェアだろうと思う。

 

誰が優先してライブに参加できるべきか、というのは色々な考え方が有るだろう。

例えば、より熱心なファンとそれほど興味がない人とであれば、より熱心なファンが見れた方が良さそうだ。

しかし、どちらがより熱心なファンか?というのをどう測るのか?

様々な価値感があるのは当然で、それを共通の指標に直したものがお金だ。

 

どうしても見たいから、欲しいものも我慢してがんばってお金を貯めたんです。

という人と、

好きなことに好きなだけお金を使った。その上でライブも安く見たい。

という人、

価値観は様々だとしても、他の条件が同じなら、前者の人が見れるようなシステムが良い。

 

お金持ちがとにかくお金を払って見たい、というなら取れるだけ取ったら良い。

そのお金で災害被災者に無料ライブを開催する、ということがあっても良い。

ライブに来られない地方の人にも届けられるように録画データを無料配布する原資にあてる、というのも良いだろう。

それで皆、ハッピーじゃないか。

 

と、私は思ったりするのだけど、どうもそうはならないらしい。

 

例えばファンクラブ会員を輪番で招待する、というようなことがあっても良い気がする。

しかし、興行側がそれをやらないのなら、望んでないのだろう。

 

今のような歪んだ形が続くのだろう。

しかし、反社会勢力によるダフ屋は許せない、となると「規制」で対処するのだろう。

 

いくら規制を強化しようと、裁定機会がなくならない限り、だれかがそれをやる。

リスクが大きくなればなるほど、反社会勢力が残りそうに思う。

 

根本的な解決は出来そうだけど、誰もそれをやらずにそのまま裁定機会が存在し続ける歪んだ市場、というのは他にも有るんだろうな、と思う。

 

既得権者が、そのような歪みを維持しようとするケースは、それはそれで合理性で理解できる。

 

反社会勢力を利するのは良くない、という共通認識があっても、不思議なバランスで結局は利する方向に行ってしまい、結局だれもハッピーにならないなんてことが有るんだなあ、ということで非常に興味深いケースだった。

 

多分、各プレーヤーが個別最適を企図した結果、といったところで、ゲーム理論なんかで説明が可能なんだろうな。

 

ブコメは、ほとんどアレな感じだったけど、その中でIvan_Ivanobitch氏のコメントが鋭かった。

 

コストを行政に投げるな

 

まさにそういう構造で、全体としてみると非効率なんだけど、コストを外部に投げれてしまえば、個別最適ではある。合理的だ。

 

これは、なんとか解決しよう、全体最適、社会全体を良くしようと思ったとして、正論を言ったとしても「この評論家、何バカなこと言ってんの」とか言われてしまう始末だから、そんなこと誰もやる訳がない。

 

在るべき姿を実現するシステムを作ると良いんじゃない?という説もあるが、どうかな?

ステークホルダー誰も望んでないようだから、徒労に終わるんじゃないかな。

 

 

営利企業の創業社長と、その人材採用戦略

人材戦略について。

語ってみても、何の得もないけど、何故か気になるこの話題。

 

「広く問題提起」──ドワンゴ「入社試験に受験料」発案の川上会長に聞く、その真意と“就活”観 (1/5) - ITmedia ニュース

解決にはほど遠い。まずは、問題提起、と。今の時代の新卒採用って、外れ学生を引くのを織り込んだ一種の社会的責任みたいなもんなんだろうな。それと、大企業は外れ引いてもそれなりのソルジャーに仕立てるし。

 

株式会社オールアバウト 2015新卒採用 奨励金制度

営利企業として全然有り。投資に対して効果十分。自由経済に理解のない人は不要、ということで良いと思う。そもそも新卒採用しない方が合理的、という気はしなくもないけど。

 

新卒入社試験の奨励金制度の中止について|株式会社オールアバウト

その気がなかった行動に対して相手に「茶化している」と言われたら、止めるのは当然の対応。リクルート関連会社云々を持ち出したり、これはドワンゴかっこ悪いなあ。この辺が分かる大人だけ受けてくれればってとこ。

 

とあるゲーム会社が求めてやまない人材とは

行動力は伸びない、ほぼ同意。地頭も伸びない。私なら地頭は高い方が絶対的に良いけど、行動力タイプが絶対というわけではなく、堅実タイプも揃えたい。行動力は創業社長が一番なわけで、地頭だけ見れば良い気が。

 

SEO・A/Bテストは万能じゃない!〜pixiv 片桐社長が語るサービスと企業のあるべきカタチ - ピクシブ株式会社の転職・求人情報 | Find Job !

タイトルが内容を損なっている。創業者だから社是も社風も好きにすれば良い話だけど、何とも言えんぬ。結果的にうまくいっているからこそ、だよな。

 

いずれの会社も若い。

採用を積極的にしたいっていうことは会社自体が成長しているということでもある。

 

企業側の悩みは共通していて、良い人材が思うように採れないっていうこと。

もちろん全て100点の実在しない夢の人材を求めているということではなくて、採用実績の中で良かった人、そうでなかった人が一定割合存在するのはやむを得ないが、いわば当たりを引く確率を高めたい。それは当然そうだろうと思う。

 

ブシロード(というか木谷社長)は、求める人材がはっきりしているように見える。

個人的な意見としては、あんまり同意しないのだけれど、ともかく創業社長がそうだ!と言っているのだから、これは他人がともかくいう話でもない。

行動力は伸びない、という話は私自身の経験としても同意するし、それを示す研究もあった記憶で、行動力を優先して人を採る、という話はそれはそれで納得する。

私自身、採用ではないが組織内既存人材の抜擢において、そのような議論をしたことがある。

 

ドワンゴ(というか川上社長)は、社会的に問題があっても優秀な人が欲しい、と言っている。

優秀というのの具体性が見えないが、有名大学出身社やSPI好成績者との相関が高いということなので、何となくだが分かる。

で、それらでのスクリーニングは良くないということで、受験料を取ることにした、と。

どうしてそれが良いスクリーニングになるのか?というロジックは特にない。

今の新卒採用全体について不健全だと思っていて、その問題に一石を投じたい、ということらしい。それなら分かる。実際にちょっとした話題になっているし。

 

オールアバウトはどうか。

ブシロードドワンゴが応募人材からの選別に主眼を置いているのに対して、応募人材そのものの多様化乃至は母数の増加が目的であることが見て取れる。

 

ドワンゴとオールアバウトは置かれている状況、抱えている課題が違う。

私は、オールアバウトの一手は、その投資に対して目的に対する効果が高いと見た。

 

 

しかし、この試み自体は結果としてドワンゴに潰された格好だ。

本当のところはともかく、表向き、オールアバウトはドワンゴの持つ問題意識に理解を示し尊重した上で、本気でドワンゴを受験する学生に興味を持って欲しい、受験して欲しい、と述べている。

 

これに対してドワンゴは、

 

記念受験や受験料回収といった、本気のないエントリーを促すものであり、批判を覚悟で一石を投じようとした我々の取り組みを茶化し、無効化しようとするものです。

 

とした。

オールアバウトによる支給条件を理解すれば、本気のないエントリーを促すものにはならず、無効化しようとするものでないことは即座に分かるはずだ。

 

そもそも2500円ばかりで記念受験が回避できるか?

また、批判を覚悟で一石を投じようとした取り組みを茶化すもの、というのはどのようなロジックで導きだせるのか。

茶化されたと思ったんだもん、というのは小学生みたいな話であって、そうでないのならロジックを説明すべきだ。

そもそも「一石を投じた」というのはどうこう言う程の行為か。

 

お互い営利企業であって過去の因習に縛られているような会社じゃないだろうから、他者がどのような活動をやったって自由だろう。

新卒人材にしたって優秀な人は有限で取り合いなのは事実だし、違法だとかいうなら分かるが、そうでない限り、あらゆる知恵を絞って、より良い「答え」を出せば良い。

 

そういう意味では、ドワンゴの一手は結果としてうまくいって、オールアバウトは取り下げという対応をした。

 

茶化しているつもりはないことはオールアバウトのコメントから明らかだ。

いや、本音は別にある、というのは下種の勘繰りというやつ。

仮にそうだとしても、建前ベースでゲームを勧めるのが紳士のゲームだ。粋ってもんだ。

 

茶化している、と正面切って言われれば、茶化している意図はないので取り下げる、となるのは大人の、紳士の対応だ。

 

分かってやったのか、理解力がなくて本気でそう思ったのか分からないが、その点、ドワンゴの手は非常に野暮だった。

川上氏はもっと粋人かと思っていたが、ちょっとがっかりした。

 

ともあれ、今回の手でドワンゴの採用効率が悪くなるということはないだろう。

オールアバウトは、今回の顛末をちゃんと理解できる「大人」な学生が来るようならメリットが有るのではないか。少なくとも話題にはなった。

 

最後、ピクシブだけど、ずばり求人情報サイトの記事そのものなのだけど、これって逆効果じゃないかな、って言う気がする。

どうも、実際の所が伝われず、むしろ間違ったメッセージを送ることになるのではないかな。

 

一見、「甘い」言葉ばかりで構成されていて、下手すると「楽そうな会社だな」と思うかもしれない。いや、さすがにそんな人いないだろう、と思いたいけど。

SEO、A/Bテストについての姿勢も誤解を生みやすそうだと思うし、「進捗管理」しないというのも「これは楽そうだ」と思われがちに見える。

自分でプロセス管理とQCDの案配が出来る人なら、お互いに楽なのは確かだけど、出来ない人だとお互いに不幸、というか地獄だよ。

 

だから、甘い言葉でなくて、もう、苦ーい感じで伝えるべきだろう。

応募は減るかもしれないが、そちらの方がお互いハッピーだろう。

 

いずれにせよ、今は出来る人ばかりで管理が楽だー、で済んでいるかもしれないが、この手法は所謂「再現性がない」。

いつかうまく行かなくなる日が来るだろう。そのとき、どうするのか、どうなるのか。

 

その点、それなりの大企業は、「外れ」を引いてもそれなりの戦力に仕立て上げるシステムが出来上がっている、と私は思っていて、行動力とか馬力とかスタミナというかが無い人は出来れば大企業に行くのが良いと思うなあ。

 

なかなか、難しいものである。

結局は、創業社長の責任であるし、採用方法も人も多様な方が良い社会だな。

 

 

表現の火は消えぬ

「ブログ批判」論争というか。

私は昔ブログ書いてた時期もあったのだけど書かなくなって数年。

今年から、また、書こうかな、という気になって書いている。

 

で、ブログそのものにはそんなに変化があったとは思ってなくて、しかし、表現者には色々な選択肢が増えたのだと思う。SNSしかり。

 

ブログは、やはり、ある程度まとまった文章が書けて、議論の道具として使える、というのが大きい気がする。

PVよりも、「気づき」や「真理の探求」が出来ると嬉しい、と思う。

私に取ってブログというかオープンなメディアは批判し、批判されるものだし、そうあって欲しい。

 

さて、最近の記事で以下のようにコメントを書いた。

 

ブログ更新の気力を失ってました - 僭越ながら

マネー系記事はリアルに他人の財産を毀損しかねないわけで自己責任の世界とはいえ発信側にもそれなりの責任は確実に存在する。あなたのせいでXX万円損した、と言われるときの覚悟がないなら他の記事書いた方が良い。

 

今のスタンスではてなブログで書き続けてると、潰れるだろうなと思った話 - 体調わる子の毒吐きブログ

ハートの強さは随一。普通立ち上がれないだろうほど打たれてもファイティングポーズをとり続けるのは素直に感心する。

 

打たれ弱い奴はブログとか辞めたほうがいいんじゃないですか(山本 一郎) - 個人 - Yahoo!ニュース

ブログ黎明期に終わった議論かと思ってたけど、この先もずっと繰り返されそうな気がしてきた。

 

 

私は、どうも「打たれ強い人」に感心してしまう。

多分、生きて行く上では打たれ強い方が有利だ。

 

「僭越」氏は、本当に繊細な人なんだろう、と思う。

件の「批判コメント」で心が折れているようでは、、、と誰もが思うだろう。

 

 

一方、「わる子」氏は、もうそんなレベルじゃない呪詛とぐうの音もでない正論を投げかけられて、それでもファイティングポーズを取り続けている。

向上心、意志の強さ、と言っていいのか分からないが、それは感じる。

あ、ちょっと間違ったな、と思ったりしたが、しかし正しい方向なのかもしれない。

正しいかどうかなんて誰に分かるというのか。

 

内容的に両氏どちらのブログが社会的価値があるか?というと、まあ、だいたい同じくらいと見る。

 

で、この記事を書いたのは、以下のブログを読んだからだ。

 

はてなブックマーク - ブログは「弱虫な表現者のためのもの」だった。 - いつか電池がきれるまで

 

表現欲と覚悟だけがあって、「切実に書きたいこと」を持たない人と、金銭欲だけがあって、炎上狙いのエントリを書き続ける人ばかりが残っていくのだとしたら、そんなブログの世界は、あんまり面白くないと思いませんか?

 

我ながら単純だな、と思うけど、文中で問いかけられたので答えを考えてしまった。

 

 

「そんな世界にはならないと思うけど、仮になったとしてそれはそれで良いかな」

 

というのが答えになる。

 

経済原理的に、需要のあるものは残るし、ないものは残らない。

「弱虫の表現」に需要があるのなら、その流通システムを誰かが作る。

 

「覚悟」の文章ははっきりと需要がある。

私自身、読みたいし、恐らく、気付きを与えてくれて、真理に近づくことができそうだ。

 

「炎上狙い」の文章は、私は読みたいとは思わないが、需要があるのは分かる。

皆、半分分かっていても読みに行くのは、快楽を得られるからだろう。

わざわざ怒りに行って、呪詛をはいてすっきりして帰る人もいるかもしれない。

人々に快楽を提供してるという意味では、少なくとも価値がある。

 

「弱虫の表現」は、私には自己満足以上の価値が分からない。

「僭越」氏は、ストレス解消のためにブログを始めたのだそうだけど、私は氏の文章からは価値が得られなかった。

 

ところで、覚悟のある人間の書く文章には、主張には大して論拠は必要ない、と思っている。

論拠が曖昧なら突っ込むものもいるだろうが、批判上等なのだから、それで良い。

 

批判を恐れるのなら、事実そのものか事実から論理的に導かれる結論だけ書けば良いと思う。

それは批判のしようがないし、価値があると思う。

 

論拠がない主張をしたいけど、批判は嫌だ、というような姿勢で、「XX投資が良さそうだよー」と書いて、真に受けた人間が持ち金全部融かしたら、それで批判されたらどうするのか。

 

書く内容に応じた覚悟は必要だろう、あるべきだ、と思う。

 

それはそれとして、覚悟がない書き手はネット言論に参加しないかと言ったら、そんなことはなくて、「炎上?何それ?」状態で参入し続けるんじゃないかなという気がする。「僭越」氏の例を見ても。

大抵は問題にならないはずだ。あえて泡沫ブログを見つけて批判したりするインセンティブがない。

しかし、たまに炎上したり問題にしたりする人が出て、、、

またブログ批判論争が何度でもなされる未来が浮かぶ。

 

目的意識と努力するための仕掛けがあれば、本気で人生を良くできる

あんまり論じる程の話でもないかなあ、と思いながら、でも書いてみる。

 

本気になれない人には「当事者意識」が足りない - ゆーすとの日記

 

本気になれない人に足りないのは「当事者意識」ともう一つ。「危機感」。 - 感謝のプログラミング 10000時間

うーん。。。目的意識でしょうなあ。

 

人生は練習と思ってる所が本番で、本番と思ってる所がオマケだ。 - teruyastarはかく語りき

んー、「大学受験なんてオマケだ」と言い切られちゃったら、実際の所その通りだとも思うものの、そもそもの文脈が変わっちゃう。

 

私の理解を前提に簡単に述べたい。

それぞれタイトルを命題と考えて、その命題の真なりや?

 

まず、

 

  • 「本気になれない人には「当事者意識」が足りない 」

 

これは、ほぼ「真」であろう。

あんまり議論の余地がないと思う。

そこから先についても論じて欲しかったなあ。

 

 

 

  • 本気になれない人に足りないのは「当事者意識」ともう一つ。「危機感」。

 

この命題自体、真で良いと思う。

ネコに追われるネズミが本気で逃げないのだとしたら、それは単に異常だ。

一定数の異常もあるだろうけど、少数の反例を持ってして命題の真偽を語ってもしょうがないので、これもあんまり議論の余地がない。

 

こちらは、ライフハック的なところまで論じられていて、要約すると

「自分をあえて危機的状況に追い込むことで危機感を醸成し、よって本気になれる」

と理解した。

これ自体、異論はなかろう。

しかし、危機感から得られる「本気」って、それって質の良い本気?という疑問が残るのではないか。

 

  • 人生は練習と思ってる所が本番で、本番と思ってる所がオマケだ。

 

これは、タイトルだけ見たときに世界のモリスエの名言「練習は本番のように、本番は練習のように」の話と思った。

 

中身を読んでみたら、そうではなくて、しかし論旨は明らかで、内容はすばらしいと思った。

新たな知識も増えたし有りがたや。

ハックアンドスラッシュなんて言葉があるんですねえ。

 

その上で命題に戻ると、、、

ドラクエに関しては、まあ、それで良いとして、議論の発端は受験の話であるから、これは「大学受験なんてオマケだ」ということになるだろう。

 

ここでのライフハックというか人生攻略法として「目標を設定した後は、手段の目的化つまりハックアンドスラッシュをひたすらやる」という方法を紹介している。

 

タイトルに、私なりの理解で付け加えるならば、「というくらいの意識の方がうまくいく」ということなのだろう。

そんなの読み取れよ、という話かもしれないが、もうちょっと丁寧に書いてあげても良い気がした。

というか、私の理解がそもそも間違っているのかもしれないが、、

 

私としては、「目的意識」だろう、と書いた。

 

  • 目的意識があると本気になれる

 

ということだし、

 

  • 目的意識を持つことが人生の攻略法の一つだ

 

ということでもある。

これも、あんまり論じる程の話じゃないかなとは思う。

 

当事者意識に関して言うと、他人の仕事なんて当事者意識が持てる訳がない。

危機感に関して、それもドライバになり得るんだろうけどそれはマイナスをプラスかゼロにした時点で終わってしまうように思う。

 

ゼロをプラスに、プラスをさらに大きくするためのドライバになりうるのは目的意識なんじゃないかと思う。

夢じゃ手足は動かないぜ!ハックアンドスラッシュだ!というのも事実だろう。

 

まあ、スパンの違う話ですね。

目的は戦略以前の話だし、戦術としてのハックアンドスラッシュと。

 

他人を動かすにも、当事者意識を持て!なんて言うのは、やはり意味がなくて、目的の共有、共感があって、ハックアンドスラッシュ的な仕組みを用意してあげるべきだろう。

 

「引き寄せ効果」的な話もあるし、まずは目的意識が先だろう、と私は思う。

 

「大学受験なんてオマケだ」について、言葉通りの解釈としても、まあ、そうだよな、とも思う。

人生の目的、目標がはっきりしているのなら大学受験が不要な場合もあろう。

 

田中のマーさんを例にしてみよう。

プロになるというはっきりした目標があった、と想像する。

彼は彼自身の人生の当事者であるが大学受験については当事者ではなかった。

 

高校時代に「変化球をもっと曲げる」ことを目的にして投げていた時期もあろうし、

それはそれで、彼のピッチングのレベルを上げただろう。

 

危機感のようなものはあんまりなかったんじゃないかな、と想像する。

  

えーっと、だからって、誰もが「大学受験なんてオマケだ」と思うことは、あんまりハッピーな結果は生まないだろうな、と思うので、大人は、「大学受験は本番であり、大事ですよ」「人生の目的、目標も考えてみよう」くらい言ってあげたら良いと思う。

 

と、ここまで書いたところで、ストレートなタイトルをつける。

タイトルは、ネタは変化球、論述はストレート。というのが私の好みだな、と気づいた。

 

田中将大、ニューヨーク・ヤンキースの超新星

田中将大、ニューヨーク・ヤンキースの超新星

 

 

 

「XXの賃金が安すぎる」なんてことは「市場」ではあり得ない、とは思うものの

気になる論説というか「XXへの報酬が安すぎる」というような主張があって、特にアニメ業界なんかだと「手塚治虫ダンピングが元凶」論をいまだに見かける気がする。

 

 

特に詳しくはないけど、仮に、手塚治虫ダンピングやったのが事実で、ある時期不当に低く抑えられていたというようなデータが出てきたとして、それでも、いくらなんでも現在の状況について手塚治虫の影響はほとんどないだろうな、と思う。

 

私は自由市場経済の働きを過大評価しているのかも知れないけど、需要と供給の関係は、ときにアンバランスだろうとも長期的にはフェアなところでバランスするだろうと信じている。

 

多分、アニメ業界の報酬、賃金は、概ねフェアなのだと思う。

報酬が安いと感じるのであれば、これは、需要と供給の結果であって、やはり需要に対して供給過多なのだろう。

 

いや、実は、グローバル市場の中で日本のアニメ会社の経営がまずくて正当な利益を得られていないのが原因で、世界的に見て日本の業界が低賃金だ、というような話があるとすると、もしかするとそうかも知れない。

たまにかいま見る米ピクサー社内の様子なんかを見ると、そんな気もする。

経営がまずいと利益が上がらないのは、それはそれでフェアだ。

 

テレビ業界は、もっと面白いな、と思う。

電波は、もちろん有限だし、様々な規制で守られている業界だと言えるだろう。

昔程じゃないかもしれないが、それでもテレビ業界のトップは高給取りだ。

 

一方で、孫請け、ひ孫受けまで行くとやはり賃金が低いと聞く。

テレビは魅力があるだろうから、なり手が多いのだろうことは容易に想像がつく、恐らくその辺がフェアバリューなんだろうと思う。

 

フェアトレードコーヒーなんかも、ちょっと良く分からない。

農園主から農奴?への搾取とか人権侵害が行われているのだとしたら、それ自体がダメな話なのであって、コモディティのトレードそれ自体はフェアなのだろうから、「フェアトレード」は本質的な問題の解決にはなっていないのではないか。

 

と書いて、ちょっとぐぐったら、ずいぶん前から議論はあるのだねえ。

 

営利企業が「フェアトレード」をプロモーションに利用するのも自由な市場にあって大いにやれば良いじゃない、と私なんか思うんだけど、むしろ有害だ!と怒っている人までいるとは、、、

 

それでも、「真実に近い共通認識」に落ち着いてなさそうなところを見ると、もう、一種の宗教論争なんだろうな。

 

本題と関係ないけど、「一種の宗教」で終わらせたくなるけど、これ、本当はあるべき姿勢じゃない。

でも、なあ。

説得って面倒だよね。

 

事実と、原理を示し続けるくらいなのかなあ、それすらやるモチベーションがあんまりないなあ。

 

子育ての幸福は幻想だが幻想で良いじゃないかという話

子育て論について。

 

といっても、わたし自身、論じるほど正しい親ではないよな、とも思いつつ、いくらかでも役に立てば。

 

子を持つことに否定的な人がいる。

もちろんケースバイケースだろうけど、合理的な判断なのだろうと思う。

 

幸福の計算式という本を読んだ。

 

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子どもが生まれると、母親、父親に関わらず幸福度はマイナスになるのだという、それもずっと、子どもが成人してさえもそれは引きずる。

 

それと、子育ては辛いけど楽しいという話を聞いたりする。

つらいのは誰しもが同意するだろう。

楽しいか、というと、どうだろか。子育てそのものは特に楽しくはないのではないか。

 

もちろん、仕事と同じで、楽しくないけど楽しむ術というのはあるだろうけど、本来楽しいものではない。

 

と、感じてしまう私がダメ人間なのかもしれないが。

 

理不尽なことも多い、と思う。

それでも、それに耐えられるのは、我が子が愛おしかったり、子育ての中で起きる、子どもから得られるふとした幸福の瞬間を過大評価して、貯金して、福利で運用して、それで差し引きでプラスと信じて、そうやってやれるものなのではないだろうか。

 

もちろん、生まれちゃったらしょうがない、という後は意思に関わらず作業に追われるだけ、というようなこともあるのかもしれない。

 

脱線すると、耐えられなくなる人もいると思う。当然。

全ての生物が子育てを完遂する訳ではない。

そういうもんだ、という前提での社会制度設計があるべきだろう。

親はこうあるべき、というようなそれこそ幻想ではなく。

 

話を戻すと、何と言うか、本能的なもんだよね。

 

何だ、やはり非合理的じゃないか、ということになってしまいそうだ。

うん。個別戦略としては、子どもを作らないのが合理的かもしれない。

種全体として、そうだと滅びてしまう。もちろん、滅びてしまえば良いとも思う。

 

落としどころとして合理性で合意できれば、皆すっきりするのだけれど、多分、そういう日は永遠に来ない。

 

こっちサイドの人間としては、私の大好きな「寄生獣」から、

"「童貞少年」と「セックスしてみて、結果、妊娠している成人女性」の会話"

の一節を引用してみたい。

 

なぜ子どもを産むんだ…

おまえらだって子どもなんか生まなくても生きられるんじゃないのか!?

 

たぶん可能だろうな

ハエは…

教わりもしないのに飛び方を知っている

クモは教わりもしないのに巣のはり方を知っている

……なぜだ?

わたしが思うに…

ハエもクモもただ「命令」に従っているだけなのだ

地球上の生物はすべてが何かしらの「命令」を

受けているのだと思う…

わたしが第二次性徴期を迎えたとき

1つの「命令」がきたぞ…

 

「生めよ、増えよ、地に満ちよ」だ!!

 

え?そんな命令こなかった?じゃあ、本来、来るべきだった命令は多分その右手君に来ているのだろうな。

 

いつか右手君との別れが来るかもしれない。

 

これが…死か…

疲れるから自分で持ちな

 

何の話だっけ。

うーん。ブログもうやめよっかな。

 

それにしても寄生獣の話は含蓄がある。

いやー、実写版が楽しみだなー。

 

ゼロベースで投資、消費を考えれば「節約」は不要

節約、投資とか持ち家論について。

 

「お金と節約」について初めて本気で勉強する【1冊目】 - 僭越ながら

そういうことじゃない、っていう。全てを投資と考えれば良い。消費をせずに投資だけすれば金は勝手に増える。

 

(追記)【初心者がお金を増やす為に必要な知識のまとめ】「お金と節約」について本気で勉強する【2冊目③】 - 僭越ながら

誰かちゃんと突っ込んであげて!私は面倒なのでやらないけど。無駄な本100冊読んでも無駄。むしろ有害。まず「全面改訂 超簡単 お金の運用術」(山崎元著)読むのをおすすめする。理解できたらあとはご自由に。

 

所得控除が受けられる積立制度を全力活用して月15万円で暮らせば貯まるよ - 情報学の情緒的な私試論β

はてなの人々の金融リテラシーというか資産運用系の知識レベルが思いのほか低いということに今更ながら気づいてびっくりしている。本当は、若い人ほど基本を押さえておいた方が良いんだけどな。

 

少しでも得になるよう、中古マンションを購入するまでに調べたこと - 言いたいことがなにもない

私が不動産屋で利回りの良い物件が有ったら客に出さず自分で買う。不動産屋より目が利く自信があるのなら専業投資家に。経済合理的には賃貸。家を買うということは余分な金で幸福、人生の楽しみを買うということ。

 

家買うときのポイント

 

ブクマとか大量についていて、はてなユーザーってマネー話とかそんなに好きだっけか、その割には全般的にリテラシー低めだなあ、と思っていたら、何かキャンペーンをやっていたせいらしい。

 

金融とか投資とかの偽情報をくぐり抜けて真実に近づいた(と少なくとも自分では思っている)人に共通の体験だと思うけど、まず、自分の過去の無知さに驚愕し、同様に無知な多くの人々がいることに愕然とし、皆騙されている!正しい知識を持ってもらいたい!と思うものだ。

で、「啓蒙」をする。

しかし、誰も理解してくれない。親しい友人でさえ、家族でさえ。

そして、あるとき、あきらめてしまう。

それでも、また、試みたりする。

 

どうせ無駄だろうと思いながらも誰かに届くことを願ってあえてここで書くなら、無駄な知識を仕入れる前に、山崎氏の本を読めば、と思う。

 

全面改訂 超簡単 お金の運用術 (朝日新書)

全面改訂 超簡単 お金の運用術 (朝日新書)

 

 

さて、「節約」に関してだけどゼロベースで考えればすっきりすると思う。

 

生きて行くには消費しなければならない。

 

それにはお金がいる。

なので、まず、生きて行くのに必要最低限の支出というのをはっきりさせる。

 

最低限の支出でも収入より大きいという場合もあるだろうが、ここでは論じない。

 

で、最低限の支出と収入の差額、余剰分から、投資、消費、貯蓄に振り分けられるだろう。

 

それぞれの境界はあいまいだ。

株式や投資信託の購入は投資だろう。

 

映画、外食、おしゃれ、趣味などに使うのは消費。

 

貯蓄は、ここでは銀行口座の残高を積み上げる行為、くらいに考えておく。

 

それぞれにどう振り分けるかは個々人の人生設計というか人生戦略次第になる。

 

各人が「幸福の現在価値を最大化している」と理解する。

 

今の幸福は将来の幸福よりも価値が大きい、という人の場合、現在の幸福を大きく得る戦略、設計が正しい。

つまり、幸福の割引率が高い人は消費を多くする。

 

逆に、現在の幸福を少し犠牲にしても将来の幸福を大きくしたい、という(幸福の割引率が低い)人は投資に大きく振り分けることで、将来に資産を大きく膨らませて、その後に、それを消費に回して幸福と引き換えることで、幸福の現在価値が最大化されるだろう。

 

さて、貯蓄に大きく振り分ける、という戦略は、メリットがないような気がする。

投資のリスクを軽減するために無リスク資産としての貯蓄を多めに取る、ということはあり得るだろうが、消費もしない、投資もしない、貯蓄だけする、という人はどこから幸福を得るのか。

と思ったら、銀行の残高が積み上がることに幸福を感じるのかもしれない。まあ、そういう人もいるでしょうね。ある意味、一番得かもしれない。

 

って言うことだと思う。

 

消費は、しかしそれも一種の投資であって、同じ金額を使って消費するならより幸福が得られる消費に回すべきだろう。

これは、人によって違うし、同じ人であっても時と場所などの条件で変わるだろう。

 

さて、持ち家論争の話だが、私は経済的には賃貸が合理的だと思っているが、持ち家である。

 

家を買う、というのは消費であると思う。

私にとっては、これで幸福を得るのが効率的であると判断した。

ファイナンス的には計算ずくで、大きなリスクはない。

 

あんまり過剰なリスクを取って家を買うのは確かに良くない。

良くないが多少のリスクを負って買う人がいても、まあ良いんじゃないの?と言う気がする。

経済的には不利なのに、これだけ家を買う人がいるということは、人間の本能的な強い欲求だと思わないか。

本能的な欲求を満たす幸せを感じたことがない人が、外部からやいやい言う話ではないと思う。

 

ものすごい禁欲生活をしている聖人にならバカにされても構わないけど、そんなに多くの人が消費しないで生きたいのかね。

 

消費を何に回すか、という点で、その回し先が持ち家、ということで、生涯幸福の現在価値を最大化できるのだという人であれば家買えば良いじゃない、と思う。

 

衣食住、それぞれの最低ラインがあって、それ以上の「消費」分をどう使うかは、各人の勝手だ。

 

まあ、分かって消費している分には、ということにはなるけども。

 

自分と違う志向の人を貶めることで快楽を得る気持ちは分かるけど、持ち家派を過剰にバカにするのは、ちょっとゲスい心が見え隠れするので注意した方が良いんじゃないかな。

 

高々、数千万くらいの話でガタガタ言うねぃ!

 

言い忘れた。

ということで、ゼロベースで積み上げて行くと「節約」という概念は登場しない、という話だった。