結婚に代わる未来の制度
まとめ
未来では結婚制度は発展的に解消され、異性/同性、近親者/非近親者、1対1に限定しない多数の成人による連帯契約制度に一本化される。
- 法律とは社会的に合意形成された感情的総意を明文化し権限を持たせたものである
- 結婚と法人化は似ている
- 人間とは情報の入力に対して個々にプログラムされた処理の出力によって動作するタンパク質の塊である
- 異常とは少数派のことである
- 多数派であることは結果に過ぎない
モデル化
人間だ、感情だ、倫理だ、と考えると難しいように感じてしまう。
単純なモデルで考えてみた方が理科しやすいだろう。
入力
次のような入力を考える。
- 異性/同性
- 近親者/非近親者
ここでは対象を成人に限定する。
出力
次のような感情を出力とする。
- 愛らしい/愛らしくない
- 性交したい/性交したくない
- 子をなしたい/子をなしたくない
処理
それぞれの入力に対してどのような出力を行うか、ということ。
例えば、
- 異性の非近親者に対して、愛らしい/性交したい/子をなしたくない、と感じる人
- 同性の近親者に対して、愛らしくない/性交したくない/子をなしたい、と感じる人
などが論理的に有り得るだろう。
多数派=正常、少数派=異常
人間として遺伝を繰り返し何世代も経た今、
- 異性の非近親者に対して、愛らしい/性交したい/子をなしたい、と感じ
- 同性の近親者に対して、性交したくない/子をなしたくない、と感じる人
このような処理パターン(思考、感情)を持つ個体が多くの遺伝子を残してきたであろうことは容易に想像できる。
このパターンが多数派であるから「正常」となる。
正常なのが人間として本来あるべき姿、なのではない。
このタンパク質の塊の集団は長い時間かけてそのような処理パターンが多数派になった、というだけである。
社会の総意としての法律
少数派は異常者だ法律で禁止しろ、という社会もあっただろうが、現代の先進国ではそうは考えない。
どちらの思考パターンも有り得るのだから権利を保障しよう、となる。
社会の総意が変化してきた結果だろう。
理性、論理性が感情に勝ったのだ、ということかもしれない。
今の、そしてこれからの社会は、例えば障がい者も含めて、単に少数派であるからといって排除するのではなく互助的な社会を望むだろう。
結婚制度は感情に支えられている
ところで個々のパターンに結果的に同様の傾向を持つ個体が増えるということを除いて合理的な優劣、善悪はない。
近親者間で性交し、子をなすことに対して批判する合理的な論拠はないし、同様に、
同性間で愛しあい、性交することに対して批判する合理的な論拠はない。
さらに、一夫一婦制にも合理的な論拠はない。それどころか個体数の増加効率は低いはずだ。
異性の非近親同士の一対一の契約を前提とした結婚制度は多数派の感情に基づいて制度化されたものに過ぎない、ということが言える。
結婚制度から感情を排して考えてみる
どうなるか。
- 個々人が契約により得られる合理的な利得
- 社会全体が契約を認めることにより得られる利得
ということになるだろう。
社会は、社会全体の損失となる契約を認めないだろうし、個々人は利得のない契約をしたりはしない。
旧来の感情的な価値観にささえられている結婚制度から感情を抜いたとき、そこに残るのは個別および全体最適のための仕組みである。
結婚に変わる未来の制度
これからの社会が感情に打ち勝って互助的な社会を形成していくとしたら、恐らくそうなるだろうけれど、結婚制度は発展的に解消する。
そして、「性別を制限せず1対1に限定しない多数の成人による民事連帯契約的なものに一本化」されるだろう。
最終的には、この連帯契約は無限に数を増やしていき「人類皆兄弟」ということになるだろう。
その先はこんな世界かもしれない。
社会全体での恋愛・結婚・出産・子育ての最適な形について - lestructure's blog
あなたはどう思いますか
あくまで感情を排して合理的に考えれば、ということで、社会は緩やかに感情を克服していくとしても急にそうはならないだろうからその時点での社会全体の感情的総意が法律となるのだろう、と想像する。
この様に考えると、全ての現象が理解できるし、未来の姿が想像できるのではないだろうか。
この論考の元となったトピック等
ウェアラブルでなくユビキタスが正解、意思力を必要としない娯楽が生き残る
コンピューターを使う理由
それは簡単で、便利だからという論理的な理由と、快楽が得られるからという感情的なことによる。
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コンピューターにかけるコストとしての意思力
一方、コンピューターを使うにはコストがかかる。
当然、お金がかかかるのだけれど、実はそれ以上に意思力を使う、というのが非常に大きい。
コンピューターの世界に破壊的イノベーションが起きた理由
つまりWindows PCの大部分をスマホが取って代わった理由である。
それは、スマホの方が意思力を使わないから、ということになる。
色々な見方はできるが、この記事はそういう筋書きである。
大部分というのを言い換えると、プライベート(感情優先)では、と言える。
仕事(経済合理性、論理優先)ではそんなこと言ってらんないので気力を振り絞ってWindows PCを使う。
OSや企業が良い悪い、好き嫌いとかいうことではない。
世の中にMSしかなければ仕事でWindows PCをプライベートではWindows Phoneを使うし、AppleしかなければMacとiPhoneを使い分ける、だけのことである。
快楽と気力の投資対効果
快楽を得るためには気力を使わなければならない。
人が気力を使うのはそれに見合った快楽が得られるからである。
これが原理原則だ。
ある娯楽に対して消費する気力と得られる快楽は人によって違う。
娯楽に多様性がある所以である。
しかし明らかに少ない気力で大きな快楽を得られる娯楽と、逆に到底割に合わない娯楽というのは存在する。
据え置き機でゲームをしないのは気力を使うから
据え置きゲーム機は非常に気力を使う。
起動が遅いのである。
ファミコンでスーパーマリオをやる場合、電源を入れてスタートボタンを押してクリボーを踏むまでの時間が実に3秒以内に終わる。(適当)
スーファミになったときに起動が遅くなったなと感じたものであるが、あれでも今考えれば爆速である。
もっと言えば、TVのチャンネルを1または2チャンにひねれば切り替わっていた。
しかるに、今の据え置き機の起動時間の遅さはどうだろうか。
外部入力への切り替えも外部入力が複数系統あるものだから選択するという手間もある。
気力を使わないTVは今でもコンテンツメディアの王様
だってTVは電源ボタンを1回押せばすぐにコンテンツが視聴でき、ザッピングそのものも一種のインタラクティブな娯楽である。
だというのに、何故、その先を気力を振り絞ってやらなければならないというのか。
TVは、ココが面白い所ですよ、と文字を出したり、複数回流したりと強調して教えてくれる。
何も考えずに楽しんで良いんですよ、ということで気力、意思力がなくても楽しめる。
バラエティ番組を見るのは意思力の弱い愚か者、ではない
何もTVのバラエティを見るのは意思が弱い愚か者だ、ということでは全くない。
意思力、気力は仕事で使っているのだし、その上で家に帰ってまで気力を使う必要があるだろうか。
意思力は有限である。
強い意志力を使う娯楽ができる人はどういう人か
無尽蔵の意思力を持つ人なのだろうか、仕事で意思力を損耗せず温存して家に帰り着いた人だろうか。
まあ、両方なのだろう。比率は知らないが、いずれにせよ多数派ではないだろう。
おしゃれ、ファッションも意思力を消耗する娯楽である
朝起きて、せいぜい顔を水でジャブリと洗って、ジャージを着れば外に出られるのである。
仕事で必要ならスーツを着るが、これも実の所ジャージとさほど変わるものではない。
このレベルであればさほどの気力は消耗しない。
しかるに、おしゃれやファッションに気を使う人は文字通り気力を使うのである。
iPhoneを裸で使うのは気力を使わないおしゃれ
これは、よほど傷が付くのを気にするような人もない限り気力を使わない。
だって、みんな使っているのだから黙ってiPhoneを買って使っていれば良いのである。
それでいて、それをダサいという人はいない。
スマホは気力の要らない娯楽
スマホを手に取ってYahooを見る。あるいはスマートニュースを見る。
実に簡単で気力を使わない娯楽である。
娯楽の2強
TVでバラエティ番組を見るのとスマホでお手軽なアプリを扱うことは、少ない気力で大きな快楽を得られるという意味で2強である。
もちろん、人によってはそんなことない、と思うだろうが、大部分の人にとっては沿うだろう。
ウェアラブルは気力が必要
メガネもウォッチも邪魔である。できればつけたくない、というのが多くの人が思う所だろう。
Apple - Apple Watch - Health and Fitness - YouTube
Google Glasses Project - YouTube
もちろん、それを必要とするあるいは使用することで生産性が向上する業務もあるだろう。であるならば、気力を振り絞って身につけざるを得ない。
あくまで、仕事上の話だ。
ファッションとしてのウェアラブル
特に必要ではないが、ファッションとして身につける、という人はいるだろう。
逆に言うと、ウェアラブルコンピューターは、ファッションの域を出ない。
究極はユビキタス
最近はとんと聞かないユビキタスという言葉であるが、バズワード、いや、もはや死語だ、という気もするが、時代がなかなか追いつけないだけであって、理想であることには変わりがない。
改めて言うと「偏在する」つまり「どこにでもある」ということだ。
よりユビキタスな方が生き残る
Windows PCでブラウザやアプリを立ち上げるより、スマホを使う方がよりユビキタスである。
据え置きゲーム機を立ち上げるより、TVでバラエティ番組を見る方がよりユビキタスである。
偏在するとまでは言わないが、スマホは持ち歩けるし、TVは部屋に置いてあるものだからだ。
ユビキタスを目指したのに失敗した例
狙い、考え方としては間違ってないが気力を使い過ぎる設計であることがダメな所である。作った方もとうに気付いていることではあるが。
狙いは合っているのに実際には気力を使う、という矛盾?が賛否が分かれる所以である。
では、この先どうなるのか
具体的には分からない。
が、複数の選択肢があるならば長期的には、よりユビキタスな方、が正解である。
より本質的には「意思力を必要としない方」ということになる。
現時点では技術その他の制限で、高い、重い、質が悪い、使いにくい、など敬遠すべき理由があるとしても長期的には破壊的イノベーションは常に起こる。それが本質的に正解であるならば。
ビジネスにおいては、せいぜい短・中期的に経済合理性がある選択肢が正解となるだろう。
長期的にどうだろうと、そのときには引退しているはずの経営者にとってはどうでも良い話だ。
ビジネスにおいて意思力を必要としないことの価値はどうだろうか、合理性よりも楽な方を選ぶビジネスパーソンなんかいるわけないじゃない。ねえ。
ガイドライン
- 長期的に見て、より意思力を使わない娯楽が生き残る
どうしようかと迷ったら「よりユーザーにとって楽な方」を選択しておけば、それが正解となるだろう。
その上で、いかにより強い快楽が得られるか。
合理性なんて忘れてしまおう。
デザイナーとエンジニア、ついでにプログラマー
エンジニアとITエンジニアとプログラマー
ITエンジニアはエンジニアの一部に過ぎない
ITエンジニア(情報処理技術者、あるいはより狭義にWebエンジニア)のことを単に「エンジニア」という言論をみると少なからず違和感を持つ。ITに限らず各分野にエンジニアは存在していて、彼らへの敬意が無いかのように感じられるからかもしれない。
単に省略しているかその論者の世界が狭いというだけかのどちらかだろうから、特にどうということもないといえばない。
プログラマーはエンジニアではない
ただ、プログラマーとエンジニアを混同するような言説には断じて違う、と思ってしまう。
エンジニアは総合的な問題解決を行う役割を担うものであり、プログラマはプログラミングの作業をする役割だ。
もちろんプログラマーを担当できるエンジニア(この場合、ITもしくはソフトウェアエンジニア)もいれば、エンジニアリングの能力はあるがその時その場所では専任でプログラムだけやっているという者もいるだろう。
しかし、役割としてのそれらは分けて論じるべきだ。混同したりプログラマという言葉を拡大解釈するメリットは全くない。
そういえば、下記のブクマしたが、この記事にはエンジニアは一人も登場していない。QCDの概念がなく単にプログラミングする人、はエンジニアではない。
【エンジニアは神だと思う】エンジニアの「できる」と、非エンジニアの「できる」は違う | HRナビ
全くプロマネできない自称ディレクターというのが存在するのだな、という衝撃。誰もプロマネできないプロジェクトが失敗しても何の不思議もない。それ以前に責任の所在が不明確だから組織の体をなしてない。
エンジニアとデザイナー
どちらも本質的には課題解決者という意味では同じ
エンジニア(この場合、広義のエンジニア)もデザイナ(同じく広義の)も共にデザイン・設計をする人で本質的には違いがない。
デザイン・設計というのは課題解決である。
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それぞれ課題解決のアプローチが違う
エンジニアの課題解決のアプローチ
多くの場合、要件をブレイクダウンしていくというものだ。
そして最も大事な使命でありエンジニアのエンジニアたる所以はQCDを適切に落とし込むことだ。
ソフトウェアなら課題をブレイクダウンしてプログラムが書けるようになるまで細かくして行く。
細切れにした作業は工数として見積もれ、それがほぼコストになりガントチャート等で納期が割り出せる。(簡単には行かないが、、、)
1回の作業でQCDが丸く収まることはほとんどない。
エンジニアは要件を出す(企画などの)サイドに「優先度決めてよ」という。
要件の項目に優先度をつけて、Qを落とすことでCDも落としてバランスさせることができるためだ。
デザイナの課題解決のアプローチ
デザイナが解決すべき領域の場合、要件が明確でないということも多い。
そのため課題解決能力以上に課題発見能力が必要になる。
ところで、エンジニアの場合、要件は満たしてるんだからこれで良いじゃん、となりがち。なのでヘボデザインを放っておく、ということになる。
デザイナは、プロダクトとしての要件を満足し、プロモーションやプレースなどの領域も考慮する必要がある。つまりマーケティングの領域もオーバーラップしてくる。
課題発見までして解決すべき課題を肥大化させた後に、しかしデザイナー自身がそれを解決しなければならない。
そこで行われるのはそれぞれの課題に対して個別にデザインの理屈・方法論・パターンを当てはめてそれらを寄せ集めるようなエンジニアのブレークダウン的なアプローチではなく、それらの問題を一つの大きな問題に構造化するアプローチを取る。
エンジニアリングが発散思考的であるのに対して、デザインは収束思考的だ。
そこでは結論が先に出る。それは構造化された問題を解く「たった一つの方法」になる。
左脳的な論理の力ではなく、右脳的な直感の力による。(あくまで比喩)
直感といっても知識がない状態で出る結論は後で見ても理屈に合わない。
知識が身になっている状態で問題が構造的に理解できていてはじめて後になって理屈に照らしても概ね正しいという答えが得られる。
両方できるハイブリッド
二つのアプローチを述べたが普通はどちらかが得意という人がほとんどだろう。
しかし、先ほどは極端に書いたが100%どちらかということはなくて、両方の思考・アプローチが必要だし、誰でも多少は実行しているものだ。
まれに両方得意なハイブリッド型の人がいるが、稀だからいないものと思って良いと思う。
うまく分担すべき
もちろん両方できたらその方が良い。しかし、組織としてみたとき、無理に目指すことはないだろう。非効率だ。
大抵は、うまく分担する方が良い。
そのとき、先に述べたようなアプローチの違いは知っておくと良い。
エンジニアはどのようなスキルを身につけるべきか
デザイナーは大きな答え、解決策を提示できるが必ずしもQCDが丸く収まるということはない。
そのデザインの意図をくんでQCDを収めるのはエンジニアの役割だ。
デザイナー(あるいは企画、営業)が無茶な要件を出す、と怒ったりするのはある意味でエンジニアの役割を放棄している。
最適なQCDを提示するのが、それができるのがエンジニアだから。
とは言え、QCDを同時に満足させようとすると要件と工数を落としたらお終いというわけにはなかなかいかずにデザイナ的な思考も必要であったりもする。
あれ、じゃあ、やっぱり必要ということになるね。
でも、あんまり言い出すと、企画ができた方が良いし、マーケティング、経営戦略、財務、プログラミングもテストも品質保証、品質工学、、、
それぞれできた方が良い。
何度も繰り返すがエンジニアの本分はQCDの管理だ。
企画もデザイナも研究者もプログラマーも誰もQCDのことを気にしてはくれない。
エンジニアだけがそれを担うんだ。
プラスアルファはあった方が良いが、QCDを収める本分を全うした上で好きにすれば良いと思う。
デザインは一つの道にしか過ぎないけど、広い意味でのデザイン思考は色々な場面で役に立つというのは確かだろうと思う。
本記事を書くきっかけ
MicrosoftとAppleとGoogleのこれから取るべき道
結論
- MicrosoftとAppleはGoogleに匹敵する検索システムを本気で作るべき
- Googleは検索(広告)の次の柱を育てることに注力すべき
- Microsoftの基盤は盤石、意外に最もBYODを押し進めるべき存在
- Appleの基盤は意外と脆弱、だがそれで良い
以下、根拠、前提を列挙する。
3強各々の強み、収益の源泉
以下、上記の詳細と各々が取るべき戦略についてまとめる。
Microsoft
- Microsoftのプロダクトはスイッチングコストが高い
- 今後もMicrosoftなしにビジネスは回らない、ビジネス向け需要に大きな衰えはない
- Windows XPから7への意向を成し遂げており基盤は盤石
- コンシューマ(家庭用PCなど)は片足突っ込んでおくレベルでOK
- BYODはAppleやGoogle製品がMicrosoftの市場に入って行く、という話ではなく本質はその逆
- Microsoftが押し進めるべきは在宅ワークなどをベースとしたBYOD(というかBring your business deviceかな)
- 仕事で使わざるを得ないWindows PCをプライベートでもという流れ
- Windowsをタブレット対応することは本質的なことではない(Windows 8/Surfaceの路線は半分当たり、半分外れ)
- キーボードとポインティングデバイスは必ずしも無くさなくて良い
- とにかく軽く、扱いやすくすることに注力すること
- 純コンシューマでAppleと勝負しても勝てない、捨てるべき
- Google検索の独走を許してはならない
- Googleのような検索エンジンを前提としないWenの世界を構築してGoogle検索を無力化すべき
- BingのOpen化も一つの手札(がっぷり四つでは多分勝てない)
Apple
- Appleのプロダクトは全て「なければなくても困らない」物(嗜好品)ばかり
- どれもスイッチングコストが低いため基盤は脆弱
- 嗜好品であるのでその本質的価値は合理的価値ではなく意味的価値
- Appleの強みはイノベーション(が皆無とは言わないが)で意味的価値を増大させること
- イノベーションがあろうがなかろうが意味的価値をつけて売れればOK
- 極端に言えば、他の会社がやったことをパクってもそれらしく見せれば良い(実際その通りだし)
- この意味でマーケティング、ブランドの会社
- 銀座で行列作るのも意味的価値(転売目的を除く)
- その意味的価値がなくなったときがAppleの終わり
- その時がいつかくるかもしれないがそれで良い
- 守りに入ろうとすると意味的価値がなくなり終わりを早めるだけ
- Googleは邪魔なのでMicrosoftやその他のプレーヤーと共同でGoogle検索の無力化を図るべき
- うまくGoogle検索が無力化できたらAndroidは胡散霧消する(維持するインセンティブが無くなるため)
- あるいはApple Computerでもないのだしコンピューターにこだわる必要もない
- ファッションと割り切った方がすっきりするか
- その意味ではApple Watchは正解かもしれない
- Apple TVは買ってもスタバでドヤリングできないので無価値
- 色々とやってきたが結局、検索(広告)でしか収益があげられない
- 検索の補完財であるデバイス、OSの価格を0に近づけて検索の需要、価値を高める戦略しかない
- GoogleのプロダクトはOSも検索も一見タダ、フリー戦略の王様
- フリー戦略は究極なのでそれ以上はない
- フリーのプロダクトには機能的価値しかない
- 無料の検索もOSも他にあるがそれでもGoogleを使うのは機能が優れているから(おしゃれだから、ではない)
- Googleよりも優れた検索エンジンが出てくるか検索自体に意味が無くなった場合、誰もが躊躇なく乗り換える
- Google製品はスイッチングコストが低い
- Facebook(あるいはClosedなWeb)はもはや脅威ではない
- 人々が検索するのはその時々の目的を達成するため
- それをサポートするような機能を押し進めれば良いと思う
- 例えば価格.com的なもの、より洗練し圧倒的な機能とパフォーマンスを持たせる
と、こんな所じゃないでしょうか。
思いつきで書いているところも多いですが。
どなたか議論につきあって頂けると嬉しいです。
この記事を書くきっかけ
行き詰まりは今に始まったわけではないけどね。戦略的には横綱相撲だし、実際それで十分に見えてる。 - lestructure のコメント / はてなブックマーク
「評価経済」「いい人戦略」について
最近、また岡田斗司夫氏の「評価経済」の話をちょくちょく見るようになったので、ゼロベースで考えてみる、
- 本質的には大昔と同じ
- 現代では情報通信コストがほぼゼロになった
- 評価が情報通信で最大限レバレッジされるようになった
という話かなと思う。
「いい人戦略」は有効
- ゲーム理論
- 遺伝子選択論
で、その有効性が確認できる。
「いい人戦略」の有効性 - lestructure's blog
いい人が生き残った、のではなくて悪い人を排除し、いい人(またはその遺伝子)を残すタイプの人が生き残った、ということだろう。
ここで、いい人は論理的に導きだされるいい人ではなくて、感情的に判定されたいい人であると言うこと。
結局の所、現代であっても感情的にいい人と判断されると社会的に得をする、ということになる。
いい人ネットワーク効果
さらに、いい人と判断され、好意を持たれた場合、この好意が伝搬する。
人は好意を持った人の言説に納得する。
「誰が書いたか」と「何を書いたか」は同じくらい重要 - lestructure's blog
好意を持たれれば、言説の説得力がまし、さらに得をして行く。
いわば、いい人ネットワーク効果であり指数関数的な性質を持つ。
これは大昔から同じであるが、大昔であればせいぜい村単位であったのが情報通信のレバレッジにより効果が大きくなっているというのが実態だろう。
個人の感情より論理が勝ってきている
ところで個別の評価自体の効果・恩恵はどうかというと、これは減少しているだろう。
感情よりも論理が勝ってきているからだ、これはまさに歴史的に科学・教育の発展や貨幣の導入等による客観的評価軸が存在することが大きい。
論理、客観的事実はそこにあるがままであり無くなる等ということはない、しかし、感情はレバレッジが効く。
為に、見方によっては感情が勝ってきているように見えることもあるだろう。
「嫌われる人」も食えるようになった
その一方で、という話になるけれど、では、悪い人、嫌われる人は生きにくくなったかというとそうとも限らないと思う。
昔は村で嫌われると村八分にあって生きていけなくなるということもあっただろう。
もちろん、今でも所謂ブラック企業のように悪評が昔以上にマイナスとなることはある。
ところが、例えばブロガーレベルの話だと炎上しているだけで勝手にPVが上がって、それだけで食えるという現象が起こる。
悪い感情もレバレッジが効くのでPVはやはり指数関数的に伸びる。
これも情報通信によるレバレッジでロングテール的な利得を得られるようになった結果だろうと思う。
そして個人ブロガーのレベルだと悪評による損失が無視できる。
まとめ
ということで
- 本質的には大昔と同じ
- 現代では情報通信コストがほぼゼロになった
- 評価が情報通信で最大限レバレッジされるようになった
という話になる。
岡田氏の結論に対して一部は同意するけど、一方で、
- 感情よりも論理の力が勝ってきている
- 悪い人も得しやすくなっている
とも思う。
じゃあ全員が得する社会なのか?というともちろんそんなことはなくて、
- 他者への批判で受ける悪意の反作用に耐えられない人
- 知的レベルなど能力の低さを露呈し、さらにレバレッジがかかってしまう人
なんかが損をする人ということじゃないかな、という気がする。
社会全体として見れば、情報通信の発達は社会活動の効率化はもちろん感情のレバレッジ装置という意味でも大きな利得(差し引きで)となった、と言えるだろう。
今後の社会
感情は大昔には種の発展のために多いに役に立ったが環境変化に遺伝的進化がついてこられないために感情装置はポンコツになっていると言える。
しかし、進化がついて行かないためにその本質は実質的に変化しないだろうし、情報通信やその他の装置によりレバレッジがかかることはあるだろう。
一方で、科学や論理、あるいは貨幣などの客観的評価軸は厳然たる事実であるのでその範囲で劣化せずに積み上がって行く。
厳密に言えば、科学的に正しいと思われていたことがある条件下に限られるものであったり近似でしかないことが分かったりすることはあるだろうし、貨幣が相対的のものであるためにそのあり方を変える(例えばビット化したりする)ことは有り得るだろうけども。
そして、その積み上がった事実と論理で複利的に伸びていくだろう。
ということで、
- 個別に見ると時間とともに論理は感情に勝っていく
- 感情にはレバレッジが効く
- 論理は複利的に伸びて行く
なので「感情が勝つか論理が勝つかはその時のレバレッジ装置次第」ということになろう。
起業したら雑務が増えるとは限らないよ
気になったので。
はてなブックマーク - 何故プログラマーは起業に追い込まれるのか
ブコメとかの反応見ていて、
「起業した方が雑務が増える、甘く見過ぎ」
「そんなことじゃ失敗する、甘く見過ぎ」
みたいなコメントを見受けた。
聞きかじりの知識で言っているんだろうけど、そんなことはないよ。
「企業とそれに伴う雑務を甘く見ている人」という突っ込みやすいテンプレ、とかって単純な話じゃない。
やり方次第ではもちろん雑務は増えるけど、別に法人作るところからやったって大したことないよ。丸投げしても微々たるもんだし。
経理もそう。毎日売上げが発生するような職種じゃないでしょ。
これは、経験者がもっと言った方が良いのかなと思った。
ということで、言ってみる。
それに、ご本人も補足で言っている通りで別に失敗したってかまわないじゃん。
で、儲かることをあきらめたのなら、独立・起業したら好きなことできるよ。
これは、知っておいた方が良い。
もちろん、儲けることを優先したら雑務は増える。
儲けるための企業、というのはもちろんあるだろうし、あっても良いけど、ここでは別の話。
好きなことをしたかったら、儲けることを最優先にしなくても良いくらいの余裕を持って独立・起業するのがベストだと思う。
趣味でやっても良いんじゃん?という意見もあるだろうけど、そんなのビジネスの経験、意識がある人ならつまらないんじゃないのかな。
単にプログラミングできていれば良いわけじゃなくって、社会的な意義、貢献、価値のあることをやりたいだろうし、だとしたら売上げが立ってなんぼ、というところはあるよ。
独立・起業して、それなりに成功している人は、この人に説教とかたれたりしないと思う。
経験がなくて聞きかじりで言っているか、やってみたけどよく分からずに失敗した人くらいだろうな、と思う。
何なのかな、嫉妬とかなのかな。自分の価値下げるだけじゃないかと思うけど、まあ、大きなお世話だわね。
自分が「最も社会に貢献できる何か」は「最もやりたいこと」でないことは多い
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最近したブコメ、ふたつ。
概ね正しい。プログラミングよりも今やらされている作業の方が社会に対して価値を創出しているわけだから組織にいたらそれをやらされるし、そっちの方が食えるってこと。食う分を稼ぎきったら好きなことできるよ。
例えるなら、人を騙しているという罪悪感を感じるようになってしまった手品師が種明かしをしたくなった、というところだろう。気持ち、よく分かるけどな。会社員してる限りは結局それを続けるしかないんだよね。
これ、共通性を見いだしたので強引にまとめてみる。
両者が置かれている状況としては、会社への貢献度が最適化、最大化されている状況なんだけど、本人の希望とは乖離している状況、ということになる。
前者の方は、プログラミングが好きなんだけどそれ以外の仕事をやらされるようになった。
後者の人は、様々なテクニックを覚えて駆使しているんだけど、人を騙している罪悪感のようなものに苛まれている。
いうまでもなく会社員は会社に貢献し、その対価としてサラリーをもらう。
会社、企業は社会に価値を提供し、その対価として売上げ、利益が得られる。
会社は社会に提供する価値を最大化する方向に力が働く。
会社員はそのような組織の中で、組織の会社全体のパフォーマンスを最適化、最大化するような力を受け、結果としてその通りに振る舞う。
それが例えばプログラミング以外の雑務、であったり、詐欺まがいのプレゼン、出会ったりする。
それは会社ひいても社会に対して最大限の価値を創出しているから全体としては良いのだけども、しかし、自分の意志とは違う、という問題、ジレンマだ。
という風に一般化して考えると、これは実によくある話だと思う。
色々と考えられるが、私が今のところ最良かなと思っている対応は、
- 割り切って今の作業を続け、今の稼ぎを最大化する
- 食うに困らないほど資産を作る
- あとは好きにする
資産と収入、支出によって金額は変わるだろう。
実際、ほとんどの人がこれをやっているんだという気もする。
食うに困らない程の資産があれば、好きなだけプログラミングをやってられるし、詐欺まがいのプレゼンをやらなくても済む。
以下、蛇足としての自問自答。
「プログラミングで20倍の生産性を出せるんだから、そっちの方が貢献できるはず」
いや、仮にそうだとしても客観的、納得的な合意ができなければ絵空事にすぎない。
また、そのプログラムは凡人20人連れてきてできるかもしれないが、あなたが今やっている役割は他の人を何人集めてもできないのだから「結局」あなたがやるしかない。
「詐欺まがいのプレゼンでなく、正しいプレゼンで説得できるし、すべきだ」
すべきかもしれないが、結局のところ(その会社の意思決定構造にもよるが)、どうせ多分、おなじ結論になる。
だったら、詐欺まがいだろうが、さっと意思決定して実行に移す方が良い。
まさに噓も方便。
正しくあるための嘘、というのがある。