人が働くのは人生を楽しむため
人は何故働くのか?
働くことは、ウソをつくことでもある。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。
ロジックがすっ飛んでて、ちょっと良く分からない。
ウソ云々の件が、ファクトもなく、ロジックもすっ飛んでいて気持ち悪かったのでゼロベースで書いてみる。
タイムスリップして原始的な生活をしている人に聞いてみれば、というか聞くまでもないと思うけど、生きるために狩りをし、服を作り(毛皮をまとっただけかもしれないが)、家を造る。
生きるため、というか死なないためという方がピンと来るかもしれない。
働かなくても死なないのなら働かない、という人は結構いるはずだ。
衣食住が足りたら、壁画でも書こうか、という人が出てくる。
楽しいからである。自己実現、と言っても良いけど。
ところで、最初は一人で狩りをし、服を作り、家を造っていたかもしれないが、そのうち分業しだす。
得意な人が得意なことをやる。
楽しいから得意だし、得意だから楽しい、ということがあるだろう。
この辺で強引に楽しいから働くのだ、としておく。
働くことは必ずしも楽しいケースばかりではないが、できれば楽しみたいものだろう。
人はまず生きるために、死なないために行動する。
生命の危険がなくなれば、楽しもうとする。
ということで、働くということは、
・ まずは、死なないため
・ その次に、楽しみのため
ということだろう。
そうではない、という人は見たことがない。
働くことへの理由として色々と上がるだろうが、どうしたって、ここに行き着くはずだ。
ということで、人が働くのは人生を楽しむため。
そんなに問答が必要な話じゃないよね、と思う。
中卒で就職するのが普通になるべき
と思った。
ほぼ結論だけのエントリ。
想像するに、中学卒業時点での学力が高い程、ビジネスパーソンとして優秀である確率が高い。
良い高校に入る子は、良い大学に入って、良い会社に入って、良いビジネスパーソンになる。
であれば、もう、中学卒業時点で企業が積極的にとってしまえば良い。
中卒で就職する子は今も昔も多くいるのだから、何の問題もないはずだ。
優秀な中卒の子は、平均的な大学卒よりもビジネス貢献度が高く、しかも給料は安く済むだろう。
研究者を目指す人で経済的余裕がある場合は就職せずに高校、大学と進めば良い。
研究に特別な興味はなく就職してお金を稼ぎたい、という人が多いだろうと思うし、研究をしたいけど経済的理由で困難という人も多いだろう。
中卒で就職するのが普通になれば、
・ 受験勉強(特に浪人)などの時間の無駄がなくなる
・ 高校大学がもっと少なくて済む、大学認可問題も消滅
・ 経済格差の再生産がなくなる、奨学金問題も解決
・ 高校無償化、日本史必修化等の議論も不要
・ 社会全体の生産効率が高まる
と、良いことづくめ。
とは思うものの雇用主の立場で考えてみれば、16歳くらいの子を預かるのはちょっと色々と気が重いな、という気もしてきた。
大企業であれば、全く問題ないと想像する。
少子化は単に幸福追求の結果としての現象である
やはり気になる、この手の話題。
【炎上】ホリエモン、新幹線で泣く子供に対し「舌打ちもしょうがない」「睡眠薬飲ませればいい」と発言 - NAVER まとめ
昔から人格者には見えなかったので、特に驚きはない。子どもと親への理解という点で段々と社会全体が悪化しているのは確かな気がする。
【正論】年頭にあたり 「あたり前」を以て人口減を制す - MSN産経ニュース
これは、少子化云々というより、単に「昔に戻りたい」のだろう。
煽るなあ。価値観次第ではあるけど、親にそんなに大きな義務はない。
私としては、絶対にこういう社会であるべきだ!という理想というのはなくて、どの論者の意見も、まあ、分かると言えば分かる。
しかし、それだけは、絶対にない、というのは「昔に戻る」ことだ。
例えば、昔の方が子どもと親に対して寛容であったはずで、昔の良い所を思う気持ちは分かるが前提が違う、トフラーの言うくさびというか、もう引き返せないし、引き返すべきでない。
「女を家に戻す」ことで少子化が減ることにはならないだろうなと先の匿名記事を見ても思う。
少子化が非寛容を産んでいると思う。
もともと(子どもと親に対して)寛容な人は、自身が子を持つか否かに関わらず寛容であり続けるだろう。
もとは非寛容だったが、子を持ち育てた経験を経て寛容になることがある。私がこれ。タイプ。
もともと非寛容で、子を持っても非寛容であり続ける人もいるだろう。堀江氏のように。タイプ。
人の性質は昔も今もほとんど同じだろう。
少子化ということは、子を持った後に寛容になるケースが減る。
ということで、少子化の現在は、昔に比べて社会全体が非寛容である、というロジック。
ただ、これは因果の結果であって、少子化の原因ではなかろう。
では、匿名エントリのように経済的な困窮が少子化の原因か?というと、これもそうは思えない。
経済的に貧しい国が少子化かというとそうではないし、日本に置いても時代を遡る程貧しかったろう。
子どもを産んだあとの死亡率が高そうだとは思うが、産むだけなら産める。
少子化の原因は「豊かさ」だろうと思う。
昔は、生きるために労働力として子どもを産む必要があっただろうし、子を生すことが幸せに生きるための数少ない手段だっただろう、と想像する。
そして、恐らく、集団で生活することで生活コスト(あるいはリスク)を極小化、効率化していた。
一方、現代では、核家族はおろか一人でさえ豊かに生きて行ける。
子を多く産み集団で生活しなくても生活コストは十分に賄え、幸せの形も様々だ。
これは、ある意味で現代社会の人々は十分に幸福なのであり、それで良いのだ、とすると少子化であることは単に結果であり現象である、と見ることが出来る。
自分は今を幸福に生きているんだ、将来、少子化で日本が人類が滅びようと知ったことかい!というのは一つの価値観だと思う。
最初に上げた3つの記事の各氏それぞれ、いや、ほとんどの人がそう思っているように見える。
社会全体での恋愛・結婚・出産・子育ての最適な形について - lestructure's blog
というのを書いた。
人類全体が繁栄して行くには、この形が一つの理想だと思う。
一方で、私も人類が滅びたって知ったことか、とも思う。
人類が繁栄してきた、つまり個体数が増えてきたのもやはり単なる結果、現象である。
人類が増えるべきか減るべきか、私にはどうでも良い。(気分の問題としては、増えた方が気分は良く、滅びたら気分が悪いだろうな、と想像する)
私としては、私自身の幸福だけが関心事だ。
自分の幸福は分かるが、他の人の幸福は分からないので。
皆同様だろう。
なので、皆、勝手にすれば良いと思う。
多分、人類は勝手に子を生し、増えてきた。
極端に言うと無法状態であったって良いと思うが、私は私の幸福を守るために法治国家の一員でありたい。
子どもに普通の生活をさせなければ!と思うのは価値観、というかその人の幸福追求の姿勢として、とやかく言うつもりはない。
しかし、法治国家が親に対して義務と定めるものは、そんなに過剰ではない。
法治国家の一員として最低限義務を果たせば、それで良いのだと思う。
ある種の習い事をさせるのが普通であり、最低限だ、というコンセンサスは、現代の日本で言えば中学校卒業まで、だ。
大過なく中学卒業まで育てれば、親としてとやかく言われる筋合いはない。
もちろん、自分ルールで何かを押し付ける輩はいるだろうが、それは国民のコンセンサスを得たものではない。
中学以上も必要だ、というのなら法制化すべきだし、それが過半数の意見ならそうなるだろう。
この辺り、もう少し思う所あるので、また、書いてみたい。
子どもを自己の所有物であるとする意識とコントロールについて
こちらの記事。
社会的地位を意識して過ちを認められない人がいる - 斗比主閲子の姑日記
最後の記述についてちょっと引っかかった。
ちなみに、本題と関係しませんが、topisyuは、自分の子供の名前含めて個人を特定できる形で、その子供の写真等をインターネットに公開している人の育児発言はまず疑ってかかるようにしています。以前も同じようなことを書きましたが、理由は、その人が、子供を自己の所有物としてコントロールする対象と考えている可能性があるからです。topisyuとは育児のスタンスが違うと考えます。
私としては、どうして疑ってかかる必要があるのか、正直な所、分からなかった。
私の認識としては、自分の子どもと言えど一個の人格であって確かに自己の所有物ではないし、子どもを過度にコントロールしようとすることは実利的に考えて逆効果だ、と思う。
一方で、意識の問題として、その子どもを自己の所有物だとする意識は、その子どもを育てるモチベーションになるのではないか、と考える。
もちろん、所有物であると考えて、その子の人権を侵害するような行為はNGだけど、それは所有物とする意識の有無に関わらずNGだ。
その意識なしに育てるのだとすると、それ以外の経済的、社会的、道徳的インセンティブによらなければならないだろう。
それは正しい子育てを行うインセンティブとして十分だろうか。
言い方を変えると、自分が所有している子どもと所有していない子ども(よその子)とどちらを育てるケースで虐待が多いか、という話でもある。
私は、自己の所有物であるが故に正しい子育てを行う、という方が自然だろうと思う。
また、子どものコントロールであるが、道徳的?な判断を抜いても、過度にコントロールしようとするより、少し長い目で考えて子ども自身が納得するようにやる方が学習効果が高い、とは思う。(エビデンスもある)
しかし、現代社会の日常生活において、実際問題として全てを長い目で見るということは出来ない。
車道に飛び出すな、という話を幼い子が納得してくれるまで待ってられない。
もちろん、こちらだって幼い子どもを連れて好き好んで交通量の多い道を行きたい訳はない。
それでも、その道を行かねばならないときに、正直なところ、子どもをコントロールせざるを得ない。
言葉を尽くして説明した上で、子どもの手を引いて、車道に近づきそうになれば、その点を引っ張るし、それでも聞かなければ頬をひっぱたくかもしれない。
自己の所有物であるという意識とコントロールは、子どもを正しく健康に育て上げるために、特に幼いころは、有効に働くモチベーションなり手段だろう、というのが私の認識だ。
正直なところ、高2くらいの子が、「トランペットで食って行くつもりだ」などと言い出したら、それがよそのお子さんなら「ああ、そうですか、結構なことですね」と思うが、「自分の子」ならそうはならない。それはやはり自分の子どもだから、という話になる。
もちろん、どちらであっても態度に変化がないのが理想なのだろう、とも思う。思うが、、
自己の所有物であるという意識とコントロールがNGだ、ということなのであれば、先日書いたような
社会全体での恋愛・結婚・出産・子育ての最適な形について - lestructure's blog
社会でないと子どもを正しく育てられないんじゃないか、と私は思う。
社会全体での恋愛・結婚・出産・子育ての最適な形について
まず、関連の話題とコメント。
前提も結論も同意しないけど、仮にそれが正解だとしても "民間だけでできる" とは、とても思えない。
星新一のSSか何かであったような、子どもを完全に親から引き離して国家管理にするような世界が一種の理想だと思うんだけど、、、まあ、実現するはずもなし。
結論から書くと、現在の結婚という制度をなくして子どもと親を完全に引き離してしまえば良いと思う。
一夫一婦制や遺伝子上の親が子を育てるべきである、というのは思い込みであろう。
恋愛は自由である方が良いし、子どもは社会全体で育てるべきだ、という話の方が社会的なコンセンサスを得やすいように思うがどうか。
その「理想の社会」では、
恋愛は全く自由に行われる。
その上で、出会いは偶然に任せない。
国家が、全ての成人に対して最適と考えられるパートナーのマッチングを行い、その候補同士の出会いまでを実現する。
当然、離別も自由。
妊娠した場合、子どもの管理は国家が行う。
出産後に子どもを隔離するシステムと、そもそも自然妊娠を不可能にしてしまって、国家で人口受精、成長の責任を持つ(それを実現する技術を前提とする)システムが考えられる。
子どもの数は完全に国家で管理するため、子どもの数が少ない/多いという問題自体が起こらない。(管理自体が失敗しない限りは)
子育ての幸せというのは、当然あるだろう。
子育ては国家公務員が行うので、試験に合格すれば子育てを行うことが出来る。平等。
子どもを管理する施設には、全ての成人が(安全が確認されている前提で)自由に出入りが出来るため、いつでも子どもとふれあうことが出来る。
子を持つことを希望しているが、何らかの事情で子を持つことが出来ないような人も「社会全体の子どもたち」と自由にふれ合い、愛することが出来る。
逆に、子を持つ、あるいは子育ての意思も適正もない人が希望していないのに子を産み、虐待などを行ってしまうようなこともない。
個人が志望した場合、その資産は全ての子、すなわち社会全体に相続される。
言い方を変えると相続税100%とも言えるが。
理想の社会では、
恋愛の機会は最大限に享受することが出来、
それに付随する義務は基本的になく(当然、納税は必要)、
最大限、平等で、社会に発生する問題を最小化する
となるだろう。
割と本気で、そう思っている。
また、今の日本の少子化傾向も、一つの均衡状態であり、まあまあ適切な状態であるとも思う。
ということで納得している身としては夫婦別姓の議論とか、婚外子の議論とか、かなりどうでも良い話だな、という気がしていたりする。
しかし、上記の理想の社会は、どう考えても実現しそうにない。
現実的な議論をするとすると、どうなんでしょうねえ。
恋愛は自由であるべき、とか、子どもは社会全体で育てるべき、とかコンセンサスを得られるであろう所から合意を形成して理想に近づけて行けば良いのだろう。
このようなブログを書くことも、理想の実現に地味に近づけるかなあ。
ゲスパー大戦としての学会誌表紙絵騒動が面白かった
ちょっと出遅れてようやくキャッチアップできた人工知能学会の新学会誌表紙絵騒動の件。
学会誌名の変更と新しい表紙デザインのお知らせ | 人工知能学会 (The Japanese Society for Artificial Intelligence)
学会サイドが謝罪した?ということらしいので、もうこういう騒動は起きないのだろうと思う。
というか、そもそも非常に一部でしか騒動になってない気もするが。
まだ収まってない人も多いみたいで、そう言う人はまあ、収まらないのだろう。
色々な議論があったようだが、私としては、ことの本質は、
「性的な願望が、結構はっきりと察知できる程出ちゃっててはずかしい!」
ということだと思う。
これが同人誌だったら、欲望丸出しでも良いんだろう。
学会誌なんて同人誌と変わらない、という説もあって、確かに人工知能学会は一般社団法人であって、公益社団法人ではない。
公益性が前提とされるなら、正当に批判されるべきであろうが、そうではないのなら、まあしょうがないんでしょう。
騒動になっているのは、一種のゲスパー大戦になっているからで、論点が無限に広がっていて、まあ、非常に面白かった。今年一番のトピックかもしれない。
ここで、ちょっと前の話を持ってくる。
不毛の連鎖! ネット上で優越感を奪い合う”マウント勢”とは? - トゥギャッチ
"自意識に基づいたゲスい勘ぐりは、本人がいないところで優雅にやるのが淑女のしきたり" というか、勘ぐった瞬間「お前の中ではな」となって、ゲームとして負けだと思う。
正に、こういう話だよね。
見方を変えると、自分のゲスパー暴露はすなわち自意識大開陳、ですよなあ。わざわざ言語化ご苦労様です、という。
そう言うの、私は恥ずかしくて、やれないなあ、と思うんだけど、匿名だからか、なかなか丸出し具合が壮観だった。
結局、勘ぐり、想像、ゲスパー部分は、何処まで行っても合意形成なんてされる訳ないんで、事実ベースでしか公(私は、それをゲーム、というけど)では話が出来ない。
例えば、「女性が掃除をしている絵を見て、私は女性差別と受け取った」というのは事実であって、否定できない。
これをぶつけてみれば公には「そのような意図はなかったが、受け止めて参考にする」くらいは最低限返さざるを得ない。
「絵の理想的女性に嫉妬しているのだろう」という返しはゲスいし、ゲームに負けている。
さらに「美少女好きオタク、気持ち悪い」と帰って来たとして、それも予想できるよねえ。もちろん、その返しもゲスいし、ゲームとしては負け。
その意味で、もちろん「性的な願望が、結構はっきりと察知できる程出ちゃっててはずかしい!」という私の感想もゲスパーの息を出ない。
でも、明らかだよねえ。
人って論理的に意思決定しないじゃない。
感情であり、欲望じゃん。
あの絵に決まった論理的な説明が出来ないのであれば、感情であり欲望、願望だし、まあ、見れば分かるよね、って言う。
とは思うものの、決定者たちが、いやそのような性的な願望はない、って言い切るのだったら、いやそれでも願望丸出しだというのはゲスい、という話にはなる。
ごめんなさい。撤回します、と言うしかない。
でも、やっぱり明らかだよなあ、強弁してまで何を守りたいの?と心の内では思うけど。
後、女性差別を助長するような意図は当然ないだろう。
ただ、無意識的な女性差別意識を持っているんだろうなあ、とは受け取っている。(これも当然、ゲスパーの域は出ない)
一方、分子生物学会の表紙絵は粋だと思う。
これぞ和のデザイン!?分子生物学会の会誌が雅すぎると話題に | THE NEW CLASSIC
粋だね。別の話題に結びつけている輩がいるけど、それは野暮ってもん。
これに対して、このような絵でも差別だ!と騒ぐ人がいるんだろうな、的なコメントがついていたりする。
これは、ゲスパーですらない。ひたすら野暮。というか小学生的。
どういう見方をしても面白くない。
「意見」のバランス感覚をどう養うか
以前、
「ちきりん批判」が粗雑ではないか?という話 - lestructure's blog
というのを書いた。
そして、本日、以下の記事を見た。
ちきりん女史の「自立」話はカネに釣られて旬な話題にぶら下がってるだけじゃないの?: やまもといちろうBLOG(ブログ)
過去記事のリンクつけてくれたら良かったのに。 http://kirik.tea-nifty.com/diary/2013/04/next-b657.html
結びの、
せっかく質の高い議論もできる人なのですから、もう少しそのあたり着弾点を見据えた話をしたほうがいいんじゃないでしょうか。
など、ちきりん氏の能力は認めた上で、誰かのためになる議論をして方が良いと言う結びなど、非常にバランスが良い記事と感じた。
私も、常々、ちきりん氏は相応の能力、経験は確かに在ると感じていて、しかし、発言が無責任だなあと感じていたので、指摘自体、納得できるものではあった。
やまもと氏は、氏なりのキャリア論がしっかりあるので、そこをもう少し触れてあげると、もしかしたらちきりん氏の話を鵜呑みにして往生するハメになる人を救えるんじゃないかな、と思った。
まあ、面倒だとは思うので、せめて、リンクくらいつければ良いのに、というコメントを書いた。
それがあったら、完璧だったのになあ。
キャリア論なんて、結局、個別のはなしになるので何が正解って言うのはないにせよ、しかし、各論客の(かなりポジションとった極論にせよ)意見を押さえておいて、その上で自分に照らしてみて考えてみれば、自分なりの正解に近づけるのではないかと思った。
また、そう言うときに、大事なのは、キャリア論で言えば、ここで出てくるような、ちきりん氏、堀江氏、やまもと氏、山崎氏、出口氏、安藤氏、柳井氏、森永氏、イケダ氏など、一通り押さえるべきと考える。
えー、だってXXはともかく、XXはXXじゃないかそんなやつの話聞いてもしょうがない。などと思いがちだろうが、そこをぐっと押さえてなるべく、議論の振り幅を大きくとるべきだと思う。
XXは嫌い、なればこそ、その論をしっかりと見ておくべきだろう。
感情的に、XXは嫌いだから、考え方もダメだろう、論述も見ない。という人が結構な数、見られる。
一方、やまもと氏は考え方が偏っているようで、意外にバランスが良い。(偏っているなあ、と思うときも多いが)
キャリア論なんかでも、しっかり各論客の意見を見て(まず、見るというのが大事)理解している。そして、常に是々非々である。
この辺、「やまもと嫌い」の人も見習うべきところじゃないかと思う。